『戦争はなぜ起こるか』(佐藤忠男著 ポプラ社 2001年刊) 亡国論ノオトその14  

 

有為な若者たちが国家によって根こそぎ戦争に駆り出されて、命を失う。こんな理不尽なことが許されていいのだろうか。今のこの国の動きを見ていると、かつて戦争に向けてまっしぐらに進んだ頃と非常に似ていると思う。なぜ、あの戦争を食い止められなかったのか。それを問うためには、歴史を振り返る必要がある。

本書を読みながらつらつら考えたことを記しておきたい。

 

○教訓Ⅰ ものわかりの良さが戦争につながる。

歴史を振り返ると、なぜその選択をしたのか、他に道が無かった、止むを得なかったという言い訳が繰り返される。今から振り返ると、一見、もっともな選択だったように思える。

歴史の教科書をなぞると、アジアの植民地化→明治維新→富国強兵→資源が無い→資源を求めて対外進出→清、ロシアとの戦争、第一次世界大戦→領土拡大・植民地化→満州国建国→中国との戦争→石油が不足→南部仏印進駐→米国からの石油途絶→真珠湾攻撃⇒そして敗戦

 

ひとつひとつの事象には、原因があり、その道を選んだそれなりの理由があった。それらの因果をつないでいくと必然のストーリーができる。だから、結果的に仕方がなかったのだとしてしまう。歴史を遡りながら考えると妙に後付けで理由が見つかり、自分が納得してしまう。さらに、歴史に詳しいおりこうさんほど、この手の理屈に弱いと思う。ここから僕らは、ものわかりの良さが戦争につながってしまうことを教訓にしなければいけない。

 

○教訓Ⅱ そこというポイントで立ち止まる、引き返すことが必要だ。

歴史を振り返ると、ある時点でいくつかの岐路に立たされたことがわかる。その時点で選択しなかった道が、その後完全に忘れ去られてしまっていないか。情況追認的な判断の連続の中でも、歩みを一度止めて、熟慮していれば違った道があったのではないか。その時、強い主張の方に思わずなびいてしまっていなかったか。一見、弱腰に見える考え方は人気がないから後になって、彼我の力を冷静に比較すれば、なんと無謀な選択をしてしまったことかと悔やんでも元には戻れない。これを、「後悔先に立たず」というのだろう。

 

○教訓Ⅲ では、いまはどうなのか。戦争をしない、できないようにするために必要なこと。

 

・シビリアン・コントロール(文民統制)は重要だ。国会答弁を制服自衛官ができないというルールもそのひとつだ。国民が、政府や軍の勝手な行動を許さない、軍の暴走を防ぐしくみだ。ただ、最近は自衛官の露出が目立つ。自民党大会での君が代斉唱、昭和100年記念式典での歌謡ショー、・・迷彩色を来てTVに出てくるお笑いタレント。最初は違和感を抱いたが、いつしか慣れてきて疑問を持たなくなる。

 

・さらに軍産複合体を作ってはいけない。武器生産を経済の中心にしてはいけない。武器を生産しない。まして武器は輸出しない。今、解禁されようとしている武器輸出は戦争への第一歩だ。いちど、軍産複合体ができてしまうと、政治もマスコミもその影響下に置かれてしまい、いいなりになってしまう。また、若者は多少給与がいいからと軍需産業に就職先を選んではいけない。

 

・いま、話題の遡上にあることが、戦争の方向を向いているか(→)、平和の方向を向いているか(←)、自分で矢印を付けてみる。

これまでも、集団的自衛権行使の一部容認、国家安全保障会議の創設、特定秘密保護法制定、武器輸出三原則の廃止、防衛産業強化法、国有の武器工場創設、敵基地攻撃能力の保持。全部、(→)を向いている。

 

そして今、国家情報局の創設、スパイ防止法、武器輸出解禁、安保3文書見直し、憲法に自衛隊明記・・。全部、(→)を向いている。

 

 

 

『台湾の少年』「1.統治時代生まれ、2.収容所島の十年、3.戒厳令下の編集者、4.民主化の時代へ」全4巻(游 珮芸, 周 見信 著、倉本 知明 翻訳) 岩波書店 2022,2023年刊     

近くの図書館のコミックコーナーで発見。装丁が豪華で全4巻を購入すると1万円を超える。岩波書店からの発行なので予想どおり内容の硬度は高い。

 

主人公は、蔡焜霖(さいこんりん)さん。1930年に台湾で生まれた。当時の台湾は日本の植民地統治下にあった。その後の台湾は歴史の大きなうねりの中で翻弄される。蔡の人生も波瀾万丈だ。蔡はどうやって政治的な弾圧下を生きのびたのか。

 

物語の中で登場人物たちが会話で使う言葉が、時代ごとに変わり、それが字体と色で区別され表現されている。例えば、蔡が生まれた時は、日本統治下(1895年~1945年)にあったので家庭内では台湾語を使うが、学校では日本語を使うことが強制される。皇民化教育だ。ここでいう台湾語は、清朝統治下(1683年~1895年)の間に、中国大陸の福建省から移民として渡ってきた本省人とよばれる人たちの言葉だ。これとは別に、もともと台湾に暮らしていた原住民の言葉もある。

 

日本の敗戦後、大陸での国共内戦に敗れた国民党政権(蒋介石)が逃れてくると、北京語を使うことになった。これらの人びとは外省人とよばれる。蒋介石は、共産主義思想を持つ者、その疑いのある者を徹底的に弾圧する。蔡もその疑いで、10年間も収容所に監禁された。

 

台湾社会は、国際政治の動きからも大きな影響を受けた。冷戦下では、親米、親日政権として国連にも加盟していたが、突然、米中の国交が結ばれ、米国から断交を突き付けられ国連から追放されてしまったのだ。このことも蔡の人生に大きな影響をもたらした。

 

本書を読むと、今の政治化らが叫ぶ「台湾有事は、日本の有事」などという言葉は軽々に口にできないことがわかる。台湾の人びとがくぐってきた歴史、置かれてきた政治環境を知ると、とても皮相的な言説に思われる

 

本書は、今年、読んだ中では、☆☆☆☆だ。お薦め!

 

国旗損壊罪の創設が議論されている。例えば、日の丸を背景にして僕の醜悪な顔を写したら、その画像は国旗を侮辱したとして罪に問われるのだろうか?

『考古学の黎明 最新研究で解き明かす人類史』(小茄子川歩・関雄二編著 光文社新書 2025年刊)④ 亡国論ノオトその13 

 

(以下、*印は僕の考え)*インダス、アンデスにおける国家・権力無き社会の例を見てきたが、次は、エジプトだ。

 

第8章 エジプト初期王権の受容・広域化と死者・祖先へのケア(竹野内啓太)(P289~P315)

 

*人類史において初めて国家社会が誕生した様子はどのようなものであったのだろうか。そこには、「王」という存在があった。

 

一 はじめに―国家、主権、ケアリング(P291)

 

「一般的に、王の万民に対する支配には、武力・軍事力に加え、彼の神聖性に由来する象徴的権威(神聖王権)に基づく君主としての正統性があった。    国家やその機構、また政治エリートが一般民衆から『正統性』を認められ、容認されるためには、国家とその指導者が一定レベルの日常的で一般的な幸福を保障しているという事実、それによって、人びとは支配者の主権に同意・服従し、自身たちを国土の『臣民』として認識する。」(P292)

 

*王が王として人々に認められるためには、力とともにある種の神聖性が必要だった。また、王は、人々を幸福にさせなければならなかった。

 

「古代エジプトのような古代国家や神聖王権の形成の特徴は、『不等価な互酬関係』の構築による『人々の臣民化』(民衆たちが国土の民として自己認識し、王の主権の下で国家に従属していくこと)であろう。」(P292)

 

不等価な互酬関係とは、「王は自身たちの維持のために下からのケアリング(労働の提供や納税など)を必要とし、臣下・民衆側はその祝福・保護としての生活世界・宇宙の安定性と農耕生産物をはじめとした資源を必要とする。」(P293)ということだ。

 

では、「不等価な互酬関係、あるいは王と臣下・民衆の相互的ケアリングに基づく依存関係が初期国家の形成と成立の間にいかに構築されたか。」(P293)

 

二 エジプトの国家形成における支配と初期王権(P294)

 

「古代エジプト社会では、基本的に祖先を崇拝(ケア)するためには、一般民衆では生産もアクセスも難しいビールやパンを捧げることが必要不可欠であった。(これは、)民衆側の祖先崇拝への必然的な制限であり、これによって義務や負債のネットワーク、そして階級分化が生じた。」(P294)

 

「『農耕→ビール・パン→祖先のケア』という循環構造において、『支配の力』とそれを表象・再生産する『儀式』(農耕は、王が神との交流)を媒介できたところに、支配力の源泉の一つがあった。その結果、支配者と民衆の間に、労働や徴税をはじめとしたケアの提供とその見返りとしての祝福と保護といった不等価な互酬関係が形成された。」(P295)

 

*同じことが繰り返し述べられている。王の支配力の源泉は、力とともに王が神と交流できる存在だという神聖性にある。

 

「当時(先王朝時代の前半、BC4,000ころ)の支配者の権力の源泉や主権は、自然環境や混沌を制御・操作することができる支配者の力と儀式、言い換えればカリスマ性やイデオロギーにあった。」(P295)

 

例が示される。「こうした支配力を維持するために、支配者グループを埋葬した墓地では、葬祭殿のような列柱施設での儀礼も実施されていた。」(P295)

 

「初期王朝時代以降の各王は、さまざまな物質を生産供給するための『御料地』をエジプトの各地に設立していた。」(P297)

 

「この御料地は、王家の直轄地であり、そこで、葬祭やほかの国家事業に必要な物質を管理運営するために行政システムと官僚制が生まれた。」(これによって、)儀礼的権威は、御料地を中心とする持続可能な制度的・経済的な権力の形態へ変換した。」(P297)

 

「つまり、王の死に伴う葬祭や死者祭祀が人々の生活を再構成する基盤になったところに、領域国家形成への第一歩があった。」(P298)

 

*このように、行政システムと官僚制の成立が国家形成のスタートとなる。

 

七.まとめにかえて―初期国家と互酬関係、そしてその分解(P313)

 

「古代エジプトの初期国家の場合、『王に対するケアリングとそれによる臣下・民衆側への祝福・保護』という不等価な互酬関係の形成・成立の一つには、亡き親族や祖先に対するコミュニケーションが特定の仕掛けと媒体に基づいて規制・制御されることにあったのだろう。」(P313)

 

「王と臣下の不等価な互酬関係は、そもそも王が神と交流しながらこの自然環境を含めた宇宙秩序を維持していたという認識の共有に基づく。」(P314)

 

「NHK-ONE」と言っているのでしょうが、僕には「犬HK-ワン」と聞こえます!

 

 

『考古学の黎明 最新研究で解き明かす人類史』(小茄子川歩・関雄二編著 光文社新書 2025年刊)③ 亡国論ノオトその12  

 

(以下、*印は僕の考え)*インダス文明の次は、アンデス文明だ。

 

第2章 “万物の黎明”への共鳴と、どこしれずすれ違いを感じる自分―南米アンデス文明を例に(南雄二)(P125~P149)

 

*『万物の黎明』とは、人類学者のデヴィッド・グレーバーと考古学者のデヴィッド・ウェングロウによる従来の人類史を根本から問い直している問題の書である。本書及びNHK-Eテレ『3ヶ月でマスターする古代文明』は、『万物の黎明』に触発された成果である。

 

*本省の冒頭に、この章のまとめがある。

「アンデス文明の黎明期=形成期(BC3.000~BC50)では、公共建築物(神殿)の建設やそこでの儀礼行為を通じて社会が統合された。(だが、その)巨大な神殿は、大人口を抱え強力な権力者が存在する社会によって築かれたのではなく、平等な小規模社会による自主的な協働労働によって完成した。」(P126)

 

*アンデス文明においては、強大な権力が存在しないにもかかわらず巨大神殿を建設するような高度な文明が成立していた。そこからわかることは、僕らの常識的な知識とは異なり、文明社会において権力者が必ず存在していたわけではないということだ。普通の人びとだけの営みで社会を統合することが可能なのだ。

 

*著者らによるアンデス発掘調査から、前の世代の神殿の上に次の世代の神殿が幾重にも地層が重なるように建設されたことがわかった。このような神殿更新の過程で社会の複雑化が生じるという考え方を神殿更新説という。

 

「農耕定住は確立していたが、祭祀建造物を築いた人びとの間で社会的差異は顕在化しておらず、小規模あるいは大規模な祭祀建造物でさえ、集団の自主的な活動によって実現された。」(P133)

 

(その後において)「神殿更新を繰り返すことが、労働力の統制、あるいは農業生産への刺激となり、社会の差異化につながった可能性」(P133)がある。

 

「権力の顕在化なしにモニュメントを築くことができ」(P136)た。

 

*では、その後において権力はどのように生じたのか。

 

「権力の生成を、儀礼用の希少財の入手や流通、儀礼空間へのアクセスの制限、集団が保持する社会的記憶の操作などに求める。」(P139)

 

「集団が自主的にモニュメント建設に携わりながら生活を送る社会と、宗教的リーダーが存在し、儀礼活動を牽引する社会が併存した。」(P143)

 

*アンデスでは、そこに暮らす人びとが社会のあり方を主体的に決めることができた。社会は、長い時間の中で、停滞を含みながら行きつ戻りつしており、狩猟採集社会から農耕社会へと単線的に移行したわけではない。ここでは、ヘーゲル、マルクスの歴史発展段階論的、社会進化論的な見方に対する批判が見られる。

 

「多くの狩猟採集民が、農耕の発生後も、その生業(農耕社会)を直ちに採用するどころか、それを意識して回避し、採用したとしてもせいぜい遊戯的な付き合い方をしてきたからこそ、農耕の拡大や浸透に数千年という時間がかかった。」(P140)

 

 

亡国論ノオトその11 猫人間になろう!     

犬は、飼い主に忠実でシッポを振って本当によくなついてくれる。

でも、猫は気まぐれで、気が向かないとソッポを向いて寝てしまう。

僕は、猫よりもどちらかというと犬の方がかわいいと思っているのだが、それは僕が犬に対して権力者の側に立っているからだ。

 

人びとに対して巨大な権力を持っている国家から見ると、唯々諾々と指示に従ってくれる犬人間の方が好ましく見えるだろう。

背中を向けて寝転んでしまう猫人間は、何とも扱いにくい。

だから今後想定される理不尽な事態、国家によって戦争に根こそぎ持っていかれるようなことになったら、みんなで猫人間になろうではないか。

 

最近知ったエピソードだが、あの文豪夏目漱石は、徴兵を逃れるために、当時本州よりも徴兵制の施行が遅れていた北海道に戸籍を移した(転籍)ともいわれている。

「吾輩は猫である」に送籍という名の人物が登場する。

 

猫人間になろう!