傍若無人のトランプがイランとの戦争を始めた。折も折、立憲民主党は公明党の票欲しさにあれだけ反対していた有事立法をあっさりと認めてしまった。全くもってバッドタイミング!ホルムズ海峡のタンカーを守るためということで自衛隊の出動は必至だろう。政府は、イスラエル、米国にモノを言え!自衛官の命を守る術を考えたい。

 

『考古学の黎明 最新研究で解き明かす人類史』(小茄子川歩・関雄二編著 光文社新書 2025年刊) 亡国論ノオトその9  

 

(*は僕の考え)*有為な若者たちを根こそぎ戦地に駆り出してしまう国家とはどういうものなのか。本書を読むことで、人類史の初源にさかのぼり、いったい国家の成り立ちとはどのような情況の中での出来事だったのだろうか。そこから、国家なき社会はどのような姿なのか幻視できないだろうか、と考える。

 

*本書は、僕らが学校で習った歴史を疑うところから始まる。教科書に書いてあった歴史は本当の歴史だったのだろうか。克服すべきは、以下に示すような単線的な進歩史観に基づく歴史記述だ。

 

「初期の農耕は、自然の雨にたよるだけで、肥料をほどこさない略奪農法であったから、人びとはひんぱんに移動する必要があり、集落も小規模であった。しかし、大河を利用する灌漑農法が進むにつれて、生産は増加し人口も増大した。また、大河の治水・灌漑には多数の人びとの協力が必要なため、集落の規模は大きくなり、やがて都市が形成されていった。こうした過程とともに、社会はしだいに複雑になった。もともと集落は、同じ血縁であるという意識で結ばれた氏族を単位としていたが、生産がふえ、分業が進むと、その内部に貧富や強弱の差が生まれた。(『新もういちど読む山川世界史』(『世界の歴史』編集委員会2017 山川出版社より)(P37)

 

*図式化すると、初期の農耕は略奪農法:(移動、小規模集落、氏族単位)→大河を利用する灌漑農法:(定住、生産増、人口増、大規模集落、都市の形成、分業、貧富の差)となる。

 

*さらに、以下のような通説も疑う必要がある。

 

「人類社会は、不自由で文明のない無垢で自然で野蛮な状態からはじまった。そして段階的な技術的進歩を経て、社会的不平等を引き受けつつも、最終的には権力や支配、暴力からなる固定化した権威のシステムとしての、自由かつ平等な国家、そして社会的複雑性のシステムとしての自由かつ平等な文明に至る。」(P58)

 

*これも図式化すると、野蛮な状態(不自由、無垢、自然)→技術的進歩→権威のシステム(権力、支配、暴力、自由、平等な国家)、社会的複雑性システム(自由、平等な文明)に至る。

 

*ホッブズのいう自然状態「万人の万人に対する闘争」も疑う必要がある。

 

「初期のヨーロッパの人たちは、ホッブズ『リヴァイサン』(1651年)にみられる『無法の平等国家社会→秩序ある階層的国家社会』という理念によって擁護された、権力や支配、暴力からなる固定化した権威のシステム(絶対王政)の中を生きてきた。そして社会的不平等を内包しつつも、技術的進歩によってそれを乗り越えようとする人類の地平としての国家という『社会編成の形態(フォルム)』を、他の社会に比べてはるかに自由かつ平等で発展したものであると自負していた。」(P51)

 

*ヨーロッパ人による国家というものに対する肯定的評価であり、それを通説としてきたのが僕らのこれまでの歴史観である。これを著者は真っ向からひっくり返して、以下のように言う。

 

「そもそも『国家』は、人類の最終目的地でも、必然の帰結でもない。だが、わたしたちは、人類がある時点で、権力や支配、暴力からなる固定化した権威のシステムを創り出してしまい、いつしか『国家』に席巻されているかのように考えてしまっている。」(P70)

 

*そして僕らに覚醒することを促す。

 

「国家体制や官僚制のような中央集権的あるいは集権的制度を根本的に拒否するなど、文明制度の取捨選択をおこない、それらを独自に発展させることができる。」(P72)

 

「権力や支配、暴力からなる固定化した権威のシステムをしりぞける、互酬原理を濃厚に残す社会が保持・維持される。そして、高度な文明を実現しながらも、経済的には、『国家』による交換や再分配の管理の範囲がせまく、市場にゆだねられることで、商品交換の優位性を確保できる。」(P72)

 

*国家に抗する社会、国家を脱する社会のイメージが少しだけ持てると感じた。

 

 

 

 

ミラノコルティナ五輪がようやく終わった。ニッポン・ニッポン!日本人選手が・・自国ファーストの絶叫中継はうんざり。とは言ってもほとんど観ていないの。だが、クロスカントリースキー男女50kmだけは例外だ。急なアップダウンのコースを、全力を振り絞って前に進む姿に心が打たれた。実況解説者も、国籍など関係なくひとりの競技者としてリスペクトしていたのが良かった。僕も元素人マラソンランナーとして、その過酷さが少しはわかるので感情移入してしまった。

『税の日本史』(諸富徹著 祥伝社新書 2025年刊)亡国論ノオトその8  

 

(*印は僕の考え)*ここまで「徴兵忌避」があったという事実やその際の理由などを振り返ってきた。宗教的な背景を持つ者、単純に戦うことが嫌だからという例が多く、思想的な理由は少なかった。特に僕は国家を否定するような考えによるケースがないだろうかと探してきたが、あまり見つからなかった。そこで、ここからは視点を変えてみたい。

 

*有為な若者たちを根こそぎ戦地に駆り出した国家の本質とは何なのか。その権力の根源とはどういうものなのか。それらを見極めたい。

 

*本書は、亡国の書ではない。税の視点から日本史を通覧できる、また税の歴史を振り返ることによって現在の税をめぐる言説を考える上でも大変興味深く読むことができる書物である。その通史においても僕の問題意識は、税の起源がわかることによって、権力や国家の発生過程が明らかになるのではないかという点にある。

 

*僕の結論を先回りして言うと、歴史の初源に存在するだろう国家なき時代 権力なき時代の様子がわければ、人びとに権力を以て強制してくる国家そのものを否定された(亡国)社会を幻想できるのではないかと考えている。

 

 

さて、本書に入るが、巻末に付録として、日本史家磯田道史氏と著者である諸富徹氏の特別対談『日本人と税』が載っている。(P245)

 

(諸富)「日本における租税の最古の記録は『魏志倭人伝』(弥生時代=3世紀の倭国)だが、実際にはいつから始まったと思うか?」

(磯田)「それは、『公』の発生と税による所得再分配や福祉がいつ始まったか。集団の生存のために所得を再分配する考え・思想がいつから現れたかという問いだ。」

「たとえば、縄文時代  (前14000年頃~前8世紀頃)の遺構に、骨折した人や犬が埋葬されていたことが確認されている。飢えと隣り合わせの社会で、生産性の低い人や家畜が保護されていたわけで、これは、所得の再分配行為だと思う。思いやり、共感性、仲間意識、そこにこの国の税の始源を見たい。」(P247)

 

*この磯田氏の発言は大変重要だと思う。早くも縄文時代において、権力による民衆からの収奪としての税ではなく、民衆のあいだにおける税による所得の再分配機能が発生しているという。前者からは税の相互扶助、互酬的な側面、後者からは税の権力による収奪的な側面、このふたつの機能は現在も税のもつ両面性として保持されている。

 

(諸富)「しかし、所得再分配の考えではなく、為政者が民衆から(税を)一方的に取ることもある。」

(磯田)「反対給付のないレント(地代)の発生もある。古墳時代(3世紀中頃~7世紀頃)の遺跡で、整然と建ち並んだ倉庫が見つかっている。ということは、徴税システムと官僚制があったことが想像できる。貨幣経済はまだだから米など農産物の物納だろう。」(P247)

 

(磯田)「古墳時代の古墳築造に対する労働力の提供も税のひとつだ。」

(諸富)「労働税(賦役)だ。」

(磯田)「日本の古墳は、中国よりも韓国よりも墳丘が大きい。これは、インフラにように公共に資するものではなく、王族や豪族だけのもの。民衆を一定の時間、古墳築造に意のままに働かせられる権力の成立を意味する。」(P248)

 

*古墳時代になると後者の面、収奪としての税、ここでは労働力の提供だが、ここに権力の発生を見ることができる。

 

(磯田)「卑弥呼の時代(170年~248年頃)になるまで、すでに弥生末期(3世紀中頃)には、外国の税制に近いものを原初的な日本の国家が学んでいた。全長200mを超えるような古墳は、組織的な徴税システムと官僚制がないと無理だ。」(P248)

 

*社会が高度になり、徴税システムと官僚制が整備されると、国家という形態の発生まではあと一歩だ。

 

*本文に戻ると、以下のように現在に繋がる租税の原初形態について述べられる。そこではすでに何らかの権力の発生や国家の萌芽が見られる。

 

○日本における租税の起源(P16)

・「(先にも触れたが)租税の最古の記録(文献)は、『魏志倭人伝』の弥生時代にあたる3世紀の倭国に関する記述のなかに、『租賦を収む、邸閣在り』とある。」(解説:租とは、米や絹などの物品、賦とは、労役のことで、邸閣(倉)を建て、そこに納めていたという)(P16)

 

・「5世紀にヤマト王権が成立し、貢納制が整備された。」

①タチカラ・・「田の力」、田地からとれる稲など、穀物の形で納めるもので、収穫物の一部を共同体の神に奉る農耕儀礼から発生した。それが、収穫物を共同体の首長に収める貢献に転化した。

②ミツキ・・穀物以外の産物、繊維製品などの物品を神や共同体の首長に奉った。

ニエ(贄)・・山野河海でとれる産物、名産を征服者に献上し、支配に服する。

そこから、ヤマト王権が各地を服属させていく過程で、被支配地の人々が大王(おおきみ、のちの天皇)への服属を示す貢納物として納めた。(P17)

③エダチ・・労力の提供の形で納める貢献

ヤマト王権が、豪族の支配下にある人々を、地方長官である国造(くにのみやつこ)を通じて挑発し、中央で労務に服させる。労務の内容は、造営(宮殿など)、造寺(寺院)、造陵(古墳)、必要な時に臨時的に挑発する。(P17)

 

 

高市「戦争まっしぐら」政権に信任を与えてしまった。軍事費を増やして米国からポンコツ兵器を爆買いし続け、武器輸出を拡大して軍需産業を儲けさせ、異議を唱える者はスパイとして拘束する。憲法を改悪して国軍を明記、対中戦争で自衛隊員が消耗したら徴兵制を導入し、若者を根こそぎ戦場に動員する。そんな悪夢を見ているが、では僕らの最低防衛ラインをどこに引いたらよいだろうか。一番大事だと思うのは、前途有為な若者の命を失ってはいけないということだ。徴兵拒否の思想、方法を編み出さなくてはならない。例えば、大規模災害に乗じて死亡を届け戸籍を抹消する、行方をくらました人が生きてゆける空間(人民の深い海)をつくる。手始めに、マイナンバーを持っている人は返上した方がいい。過去の兵役拒否の例から学べることがたくさんある。

 

『赤紙 男たちはこうして戦場に送られた』(小澤眞人+NHK取材班 創元社 1997年刊)亡国論ノオトその7 

 

本書からも、徴兵に関わる様々なことを以下のとおり学んだ。

 

○行方をくらました人々

「・・中には、家族にも告げずに行方をくらます者もいた。・・いわゆる『徴兵忌避者』である。」(P59)だが、「・・軍にも、多数の不明者の所在を確認する余裕はなかったらしい。」そして、「(村に戻って来ても)不明者に対する処罰はとくになかったという。処罰するよりも、一人でも兵隊に取りたいという軍の意向があったようである。」「戦時中の所在不明者の数は、富山県内だけでも500人以上に上っていたという。」(P60)

 

*(僕の感想)戦争の苛烈さが増すにつれて、戦地への動員を優先するため、不明者の捜索などに労力をかけていられなかったようだ。根こそぎ持って行かれるというイメージがあるが、意外とその網の目は粗かったようだ。さらに、「また、刑事上は、最高でも禁固3年以内の罰則しかなかった。」(P170)ことから、最高刑が死刑の治安維持法に比べれば罪が軽いと感じる。戦場で命を落とすことを選ぶか。3年間ガマンするか。逃げる、隠れる、もし捕まっても兵役を拒否した方が生きてゆける。

 

○赤紙から逃れた人々

元連隊区司令部軍属の証言「不明者は、優秀な共産党の思想の人が多かった。特高(特別高等警察)が調査するのですが、たいがいは大阪や京都で変名を使って暮らしていました。兵役拒否は重罪ですよ。在郷軍人名簿には所在不明者は印を押して、出てきたらすぐに召集するようにしました。」(P168)

 

別の元連隊区司令部職員の証言「所在不明者の中には自殺した人もいましたね。また、女性と駆け落ちした人もいた。軍隊が嫌で不明になった人は多かった。兵役を嫌う人とか、家庭の事情でやっぱり召集を逃れたりとか、そういう気持ちも多いんでしょう。」(P169)

 

「共産主義への傾倒や、反戦思想から兵役を拒否したケース、いわゆる『良心的兵役拒否者』である。しかし、実際には、インテリの拒否者よりも、人間くさい理由で不明になった人のほうが大半だったという。」(P169)

 

「警察も憲兵も積極的な摘発をしなかったという。そういう人たち(拒否者)を、半ば強制的に集めて、炭鉱(北海道が多い)での仕事に従事させたという。」(P170)

 

*思想的な理由、宗教的な理由からの兵役拒否者もいたのだろうが、大半は『嫌だ』というまっとうな感情からだ。戦況に熱狂する社会に付いていけない、御国のためになどとは心底思うことができない、そのような人がたくさんいたということだ。

 

*以下は、さもありなんという例である。すべてがきれいごと進んだとは思わないが、有力者につながる者が、袖の下、ひいき、特別扱い・・戦時下においても世の常のごとくあったのだ。

 

○不正に悩む軍部の認識

「不正は、連隊区司令部に備えられた在郷軍人名簿の改ざんという形で行われた。名簿から当人の名前を破棄する。また、召集延期者や健康上兵役に耐えられないと記入することで、赤紙の候補者から外してしまう。」(P227)

 

○富山連隊区司令部で行われた不正

「年度動員計画に対応して、前年度から赤紙を用意した。これは充員召集であり赤紙は充員召集令状である。中には、部隊の動員がないこともある。その場合は、準備された赤紙は交付されない。その後、臨時戦局に応じて発令された臨時動員の召集には、充員召集の対象である人は除外された。翌年も引き続き充員召集の対象となることが多かった。」(P228)

 

「ある下士官がお金をもらってね。それが後で発覚して軍法会議に図って、軍曹が一兵卒まで降等になって、北海道の部隊に行ってしまいました。」(P229)

 

○師団司令部動員参謀の関与

「赤紙で入隊してきた兵隊の中に、大阪の国会議員の息子がいて、父親から召集を取り消してほしいと依頼された。兵役に耐えられないとされて『即帰』として召集解除した。」(P229)

 

2.8ショック!高市が圧勝して、真っ先に思ったのは「これで戦争準備が加速する」ということだ。定員割れで自衛官が不足すれば徴兵制も現実のものとなる。戦場で死なない、人を殺さないための思想、方法を急いで考えないといけない。

 

『戦争拒否 11人の日本人』(山村元毅著 晶文社 1987年刊) 亡国論ノオトその6    

 

書名のとおり、戦争を拒否した11人の物語が描かれている。拒否した理由は様々だが、以下で簡単に紹介したい。

 

2章:北川省吾さんは、できない、やりたくない、だから戦場では銃弾を撃たないと決めた。反戦思想やイデオロギーと呼べるような“非戦”の思いはなかった。 だが、戦死。(P22~)

 

3章:山田多嘉一さんは、甲府が空襲された混乱に乗じて、知り合いの医師から白紙の死亡診断書用紙をもらい死亡届を偽造し戸籍を抹消、壮丁名簿(召集)から脱落させた。飯場などを点々として、生き抜いた。(P35~)

 

4章:イシガオサムさん(石賀修、ローマ字論者)は、簡閲点呼(徴兵検査で丙種合格者となった者に対して、毎年本籍地か寄留地で点呼に応じる義務があった)の際に、憲兵隊本部に兵役拒否を宣言、だが後日撤回し看護兵として入営した。彼はキリスト教がバックボーンだった。(P63~)

 

5章:林歳徳(リン・スェート)さんは、台湾生まれ。1937年兵役法が改正され、植民地だった台湾でも徴兵義務が課せられた。林さんは、日本へ密航を企て徴兵を逃れた。(P89~)

 

6章:山口武秀さんは、農民運動家で戦争に反対、死ぬ気はなかった。友人が師団参謀長に掛け合い、召集を解除させた。(P113~)

 

7章:浜田庄吉さんは、杉浦健次と名前を変えて日本中を逃亡した。丸谷才一の小説『笹まくら』のモデルで、丸谷は「国家に対し、社会に対し、いちど反抗をした者は、最後までその反抗をつづけるしかない。引き返すことは許されぬ。いつまでも、いつまでも危険な旅人であるしかない。危険な旅、不安な旅」と書いた。(P135~)

 

9章:小田切秀雄さん(のちに文芸評論家)、白井健三郎さん(のちに学習院大学教授)、宗左近さん(のちに詩人)らは、身体を毀損して召集を逃れた。(P177~)

 

10章:釘呂義人さんは、「禁酒非戦」の牧師だった。氏は、「国と国とが争っている場合、農民だろうが商人だろうが、国民のすべてが何らかの形で戦争に巻き込まれていく。その国に生きていることが即ち、戦争に関係することである。被害者であると同時に加害者でもあり得るということだ。国を持ち、家族を持ち、友人を持つ限りは、戦争の網の目からだれも逃れられないのである。」と書いた。召集時に自殺を試みて、兵役法で懲役に処せられた。(P195~)

 

11章:北御門二郎さん(のちにトルストイ翻訳家)は、「狂人」扱いされるが徴兵から免れた。(P221~)

 

著者の山村氏は「共通するのは、戦争に対する嫌悪感、死にたくない、殺したくないという願い」だと結ぶ。(P243)

 

7章の丸谷氏のことば、10章の釘呂さんのことばは、まさにその通りだと思う。僕はそこから逃れる方法を見出したいのだ。国家の管理の網の目をかいくぐる方法だ。国家自体が無くなるのが究極の姿だが、そこに至る道をどう作ったら良いのか。微かだが国家とは何かという問いが湧いてくる。

 

久しぶりのシアター・キノで『旅と日々』(三宅唱監督 2025年作)を観た。ロカルノ国際映画祭でグランプリを受賞したということで、現在、アンコール上映されている。原作が、つげ義春、何気ない日常のまったり感の中で、鋭い着想が見られるのがつげの良さ。前半は、河合優実が謎を抱えているような役を演じていたが、河合の個性はもっと影を演じさせないと引き出せない。主演のシム・ウンギョン、『新聞記者』でも良かったが、力のある俳優だとあらためて思った。観客のほとんどは、70歳代以上では?

 

 

『兵役拒否』(佐々木陽子編著 青弓社 2004年刊)② 亡国論ノオトその5    

 

これまで何回か書いたが、1873(明治6)年徴兵令が施行された。著者は、「(当時の民衆にとって)国家のために自己の生命を犠牲にする思想とは無縁だった」(佐々木陽子P164)と述べる。明治になって直ぐということで、それまでの藩を中心とした生活という意識がまだまだ残っていたのだろう。国家という観念、国民という意識が定着していなかったのは当然といえよう。当然のことだが、積極的な意味で、国家を否定するような考え方はなかったのだ。

 

施行された徴兵令には様々な免除規定があり、徴兵逃れが広く行われていたことがわかる。その中で、「夏目漱石は北海道に転籍し徴兵を逃れている。」(佐々木 P170)というエピソードには驚いた。これは、北海道での徴兵令の施行が1887(明治20)年と内地(本州)に比べて遅かったため、戸籍を北海道に移せば徴兵の対象から免れることができたからである。

 

また、引用されている鶴見俊輔の言葉、「日本人の中に、昔からあった伝統の中に、国家や政府を疑う権利を持とうという思想があるような気がする。そこに兵役拒否の根拠を見出し得ると思う。」(『潮』1972年9月号「兵役拒否と日本人」潮出版社)(P189)は、まさに僕の求めている考え方だが、本当にそうなのだろうか、そのような考え方が根付いているのか、その根拠を突き詰めるのにはもう少し吟味が必要だと思う。

 

そして、著者(佐々木)の、「徴兵拒否をおこなった『エゴ』まるだしの行為者は、戦時国家の最も恐れる国民像、すなわち国家が始めた戦争から抜けることを行動で宣言した人間であり・・」(P192)という言葉はさらに重要だと思う。多くの国民が「オイラ、いち抜けた!」と宣言してしまえば国家はお手上げ状態になるだろう。これは、根こそぎ国家に絡めとられていくことに対する抵抗の論理としては有効だと思うが、その時の具体的な情況下にあったどのようにしたら可能なのか、これももう少し深める必要があると思う。

 

だが、国家を拒否し、国家という束縛から解放される思想を見出したいと考えている僕にとっては、断片的だが小さな手掛かりを得たように思う。