「♪ 毎日難儀なことばかり・・日に日に世界が悪くなる・・♪」現在、放映中のNHK朝ドラ『ばけばけ』、主題歌の歌詞が毎朝こころに沁みる。メロディは吉田拓郎調、詩は昭和枯れすすき。何とも言えぬ世情に対する切なさが漂う。でも、RADWINPSやVaundyの唄も感じることができないと若者に届く言葉は見つからないよと、友人が教えてくれた。

 

 

『徴兵制と近代日本 1868―1945』(加藤陽子著 吉川弘文館 1996年刊) 亡国論ノオトその1    

 

*書きたい気持ちが湧いてきたのでブログを再開することにした。この国が戦争に向かっているように感じているのは僕だけではないはずだ。それで、国家が国民に強制する兵役義務の理不尽さを考えたい。そして、もし国家が無い社会があったらと妄想したい。

 

かつて、「御国のために」優秀な若者たちが国家によって根こそぎ戦争に駆り出され、無惨に命を失った歴史を忘れてはいけない。若い世代の人たちが、再び犠牲になることが無い社会を構想しなければならない。戦争に参加しない、しなくて済むような術を編み出したい。それを若者に届く言葉を見つけ伝えたい。

 

この国の徴兵制は、1873(明治6)年制定の徴兵令に始まる。当時の一般の人びとは兵役をどう捉えていたのか。忌避の動きから参戦しない術を見出せないだろうかと考え、加藤氏の著作を読んだ。

 

徴兵制導入の頃の、人びとの気持ちが書かれている。「国家のために死ぬことは、当時の民衆には無縁の思想であったろうし、苦役はイヤだという気持ちからする忌避も当然あっただろう。」(加藤P51)明治維新前までの人びとは藩に対する帰属意識を持っていただろうが、急に国(国家)といわれても、なにやらピンとこなかったに違いない。

 

また、「・・農民から兵をとりたてるのは止めて欲しい・・。兵隊になるのが賤業だといっているのではなく、長い間兵士をしていると、自然に『士風』に染まってしまって農業を厭うようになるので、兵隊にはしたくない。」という声もあった。(M4静岡県韮山 加藤 P56))

 

また、初期の制度に対する人びとの不公平感もあったようだ。「近世以来の地域の実力者であった戸長のもとで戸籍の管理が行われている限り、情実、脱落、遺漏などは数限りなくおこったと考えられる。」(加藤 P52)また、免疫条項も多く徴兵逃れが横行し、「相続法の存在ゆえに、・・免疫条項上の規定によって、合法的な忌避行為が堂々とまかりとおったのである。」(加藤 P51)

 

 


釧路湿原隣接地でのメガソーラー建設と泊原発再稼働         

 

少し牽強付会とは思うが、湿原に生息する動植物を保護せよと主張する環境保護派と原発反対を叫ぶ環境派が対立構造に陥っていると考える。原発に頼らず太陽光発電などの再生エネルギーにしようとすると、タンチョウ鶴の営巣地など湿原の自然を破壊してしまう。

 

ここでは、ラピダスをはじめとする半導体産業、データセンター、AIなどにおける電力需要が今後一層伸びると予想されるので、何らかの発電設備が必要だという前提で議論を進める。(僕は、過剰に電気依存する社会や生活様式を必ずしも肯定しない。)

 

釧路湿原に近接するエリアで日本エコロジーが進めているメガソーラー建設が、タンチョウ鶴の活動を阻害するなど環境上の理由で批判されている。だが、この地域では、これまで市街地も含めてすでにソーラーパネルが林立している現状がある。それなのに、今回ことさら自然保護が強調され、マスコミを挙げて反対世論が形成されていることに作為を感じる。

 

少し俯瞰的に道内を眺めまわすと、ほぼ時期を同じくして泊原発の再稼働が原子力規制委員会の審査に合格したことに気付く。喉元過ぎれば熱さを忘れるか、福島第一原発事故の恐怖はどこへ行ってしまったのだろうか。国を挙げて、既存原発の再稼働、新増設に舵が切られた。環境を守るはずの再エネは環境を破壊する。電気が必要なら原発だ。タンチョウ鶴の命が大事か、放射能から市民を守るのが大事か。環境を守れという人びとが巧妙に分断されている。

 

では、どうすればいいのか。僕は、電力需要そのものを抑制的に捉え、電気に過度に依存するべきではないと考える。北海道民は、胆振東部地震の際に起こったブラックアウトで電気に依存した生活の脆弱性を痛感したはずだ。原発の最大の問題点は放射性廃棄物の最終処分技術が未完成なことだ。福島第一原発の廃炉も遅々として進んでいない。一方で、ソーラーパネルも希少金属を含む大量の廃棄物が発生する。

 

 

(僕の考え)吉本隆明は、エコロジストは、人びとの生活の隅々までああしろ、こうしろと注文をつけるファシストだと言った。僕もその影響を受けている。3.11ショックでにわか反原発を唱え始めた人々を信用しなかった。なぜなら、反原発を叫んでも、何一つ情況が打開できないからだ。放射能の制御技術、廃炉技術を死にもの狂いで開発するほかないと考えたからだ。案の定、にわか反原発主義者の熱は冷めてしまったように感じる。

 

タンチョウ鶴を守れという主張も限界を持つと考える。なぜなら、彼らの活動が国立公園エリア内に留まらないからである。道内かなりの範囲でタンチョウは活動している。そこをすべて開発規制エリアとすることはできないだろう。なお、日本エコロジーが違反しているといわれている森林法は開発規制法ではないので、開発に伴い伐採した森林は植林して復元し、防災に対する措置を講ずれば、法律上は開発を許可しなければならないとなっている。今回の案件は、開発前にきちんと許可を得るべきであったと考える。森林法は、森林を守るというより、林業振興のための経済法の性格を持っている。

 

 

天皇・皇后が6月19,20日に広島を訪問した際に、市民による提灯奉迎が行われ、両陛下もホテルの窓から提灯を持って応えていたニュースは見ていた。だが、そこに児童が動員されていたこと。さらに、広島における提灯行列は歴史を遡ると1937年の南京占領(事件)時に行われていたことは知らなかった。ヒロシマというと原爆投下の被害ばかりが伝えられるが、加害の歴史に思い至らなかったことを恥じたい。まだまだ僕は未熟だ。

 

 

『京都占領 1945年の真実』(秋尾沙都子著 新潮新書 2024年刊)  

 

1945年敗戦後、京都にも占領軍が進駐してきた。僕は縁があって何度か訪れているが、現在のまちの様子からは想像できないようなことが起こっていた。四条烏丸に司令部が置かれ、堀川通は航空機の滑走路、上賀茂神社の御神木はゴルフ場建設のために伐採され、祇園歌舞練場はダンスホールに使われた。また、京都は原爆投下の候補地としてリストアップもされていた。具体的なエピソードは是非本書を読んでほしい。

 

僕が興味深く読んだところは、第9章「昭和天皇を『仁和寺』門跡に 近衛文麿の画策」だ。「終戦とともに昭和天皇には退位・出家して頂き、『裕仁(ゆうじん)法皇』として、かつての内裏正殿である紫宸殿が移築されている仁和寺にお住まい頂く計画があった。」(P107)

 

「時は、1945年1月25日、仁和寺から西に300メートルほどの近衛文麿の京都別邸・虎山荘で、密談が持たれた。集まったのは岡田啓介、海軍大臣の米内光政、仁和寺門跡・岡本慈航。どうすれば天皇家(国体)を存続しうるか。翌26日、近衛は天皇陛下の弟君で海軍の和平派だった高松宮を同じ茶室に迎え入れ前日の密談について説明した。」(P108)

 

「この密談を経て、近衛は天皇への上奏へと動き出す。1945年2月14日の『近衛上奏文』である。近衛が天皇に訴えたのは、敗戦後の共産革命の脅威と、これ以上戦争を続けても仕方がない、の二つだった。上奏を天皇は拒んだ。『昭和天皇独白録』には、『私は陸軍が沖縄決戦に乗り気だから、今戦いを止めるのは適当ではないと述べた』と記されている。」(P111)

 

*(僕の感想)昭和天皇は、近衛を信用していなかったこともあり停戦を拒否した。一方、皇室制度(国体)を護るために共産革命を恐れていたのであろうが、それは最後までソ連に停戦の仲介を期待していたこととは矛盾している。

 

「GHQによる占領開始から2ヶ月後、近衛は天皇の退位問題にも触れている。『御上は大元帥陛下として戦争に対する責任がある。ゆえにご退位なされないと、あるいは連合国の一部から戦犯指定の声が出てこないともかぎらない。それでは国体護持は不可能になる。退位されて京都にでもご隠居なさったほうがいいのではないか」(半藤一利『日本国憲法の200日』)(P115)さらに、『細川日記』によれば、1945年秋、近衛は「陛下は逮捕されても自決されれば、皇室は助かる」と細川護貞に語っている。(P115)

 

著者は、「皇室の人々はみな天皇の退位を望んだ。皇太子(現上皇)に譲位し、高松宮が摂政につくのが妥当と考えられていた。半分は国体護持のため、あとの半分は自分たちが生き残るためである。しかし、昭和天皇はこれに応じなかった。」(P115)と記す。

 

「1946年1月28日、宇多天皇について進講をお受けになっている。宇多天皇は平安時代、政治刷新に尽力し、その後落飾して法皇として仁和寺門跡になられた。」

 

*(僕の感想)トップは孤独なのだろう。それを取り巻く者たちは立場も異なり、現実を踏まえて冷酷な考えを持つ。近衛を含めて皇室の人々は、皇室制度(国体)がシステムとして存続できれば、天皇個人が隠居しようが、自決しようがどうでもいいという。自分たちはその中で生きてゆける。これらのエピソードを知り仁和寺に抱くイメージが変わった。

 

 

 

 

スマホひとつあれば、雑誌、書籍、新聞を読むことができる。でも僕は何と言っても紙でないとダメだ。本の大事なところに付箋紙を挟む、ラインを引く。並べる本棚の位置も重要だ。新聞の記事は切り抜いてスクラップブックに張る。布団の中で雑誌を読んで眠りにつく習慣は50年続いている。すべて、脳みそに記憶を定着させる僕なりの方法だ。

 

戦後80年に想う 歴史に学ぶ 『あんぱん』 原発 ウクライナ     

 

以下は、僕が参加しているある学習サークルで発表した内容です。8月の企画は、「戦後80年について」というテーマで、参加者それぞれが一人3分以内で考えていることを述べ合おうというものです。僕は時間をオーバーしてしまい6分もかかってしまいました。

 

 

80年前、この国が戦争に敗けたとき、人びとは『もう戦争なんてこりごりだ!』と思ったに違いない。ここを出発点に2つのことを考えてみたい。

 

ひとつは、なぜ、あのような無謀な戦争に突き進んでしまったのか。一体、どこでどうして道を誤ってしまったのだろうか。政治家、軍人など当時の指導者たちはきちんと責任を取ったのか。ということですが、これはひとまず置いておき、今日は触れません。

 

もうひとつは、現在放映されているNHKの連続テレビ小説『あんぱん』で描かれているように、国民のほとんどが自ら進んであの戦争に熱狂したのではなかったか。誰かに言論を封じられたから、戦争に反対だと声を上げられなかったのではなく、ひとりひとりが戦うこと、勝利することを信じて疑わなかったのではないだろうか。ということです。

 

しかし、僕が問題と感じているのは、その後に起こったことです。

戦争に敗けるや否や人びとは、今度は180度も価値観の違う民主主義の旗をこぞって振り始めたのです。僕は、この大衆(国民、人びと)も変わり身の早さに驚きます。

 

この大衆の変わり身の早さこそは、戦後の世の中になってからもずっと続いているのではないでしょうか。最近のことでいえば2つのことが気になっています。

 

ひとつは、原発です。2011年3月、福島第一原発事故が起きると、それまで疑問もなく原発の恩恵を受けていたと思われる多くの人々が「反原発」を叫び始めました。だがあれから10数年が経ち、あの時の熱狂はなく、再稼働、新設への動きがさしたる反対も無く粛々として進められています。

 

もうひとつは、ロシアがウクライナに攻め入った2022年冬、水色と黄色の旗を持ってウクライナ支持を叫んでいた人たちは、今どこへ行ってしまったのでしょうか。事態は何も変わっていません。

 

僕は、多くの人々がひとつの方向になだれ込み始めた時は、疑い時と決めています。そんな時は一歩踏みとどまって事態を冷静に考えるべきと思っています。その方法は、歴史を学ぶことだと思います。生じた事態を、今、この時点だけで瞬間的に判断するのではなく、少し長い時間のスパンをとって、そこに至った経緯や由来を振り返ることが重要だと思います。

僕らの高校に赤坂という中国史に詳しい世界史の先生がいた。ある時、僕らの上の学年の生徒が、定期テストの問題用紙の隅に「欧陽菲菲について知るところを記せ」と、先生に逆質問をした。先生は、手元にあった中国関係の文献をくまなく探し、人名事典を調べたがどのような歴史上の人物なのかわからなかった。すると、傍らにいた奥さんが「その人テレビに出ていない?」と。今でも覚えている授業中のエピソードだ。

 

『メメント・ヴィータ』(藤原新也著 双葉社 2025年刊) 

 

1980年代、『東京漂流』だったと記憶するが、金属バット両親撲殺事件についての写真と文章は衝撃的だった。あれから40数年が経ち、1983年発刊の『メメント・モリ』(死を想え)は、当時の快感原則の時代へのメッセージだった。だが、2001.9.11以降は死の時代に変わったと捉え、本書の書名を『メメント・ヴィータ』(生を想え)にしたという。

 

著者は、ヒトが自然を破壊したことが森林火災、戦争、ウィルス、地震などの原因であり、自然が狂うと人間も狂う。かつての自然、風景、人びとの情感はすでに失われてしまったことを嘆く文章が延々と続く。僕にとっては、まっとうな話で特に異を唱えようとは思わないが、凡庸でつまらなかった。

 

だが、これで終わらないのが藤原新也だ。著者の真骨頂が発揮されるのは、本書の最後の部分だ。オウム真理教、麻原彰晃と早川紀代秀、死刑執行と赤軍派田宮高麿の急死、統一教会教組文鮮明と北朝鮮、これらが地下水脈で繋がっているのではないかという大胆な推理、ディープな世界への入り口が見えたのだ。

 

著者が発見したいくつかのエピソードが語られる。1995.3.15地下鉄サリン事件(全く偶然のことだが、その日僕は出張で上京、事件直後の霞が関で仕事をしている。)著者は、事件後人目を避けるために大阪に隠れていた長兄の松本満弘を訪ねる。兄は、麻原彰晃(本名松本智津夫)の生まれた熊本県八代市で、松本鍼灸院を開いていた。兄も目が不自由だったことから、兄弟に水銀汚染障害の影響があるのではないかと疑う。案の条、智津夫は水俣病患者としての認定申請を県に行っていた。結果は却下されている。(県によると八代地区に未認定患者が51名いるという。そこに智津夫が含まれる可能性は大きい。)

 

兄の話によると、オウム真理教ナンバー2の早川紀代秀が入ってきてから、智津夫が変わったという。著者の推理のキーパーソンは、早川だ。

 

サリン事件から27年後、2022.7.8安倍元首相銃撃事件が起こる。80年代、霊感商法、合同結婚式などで批判を浴び注目されていた統一教会が突然表舞台に登場してきた。

 

著者は、オウムと統一教会を結ぶ手掛かりがないのだろうかと調査を進める中で、株式会社世界統一通商産業の統括取締役に早川紀代秀の名を見つける。この会社は土木建築をはじめ多様な業務を行っており、その中にヨーガ教室の経営も入っていた。何と、早川は、統一教会関係者であるとともにオウム真理教の信者でもあったのだ。このことから、早川が統一教会からオウムに送り込まれた可能性が示唆され、それがサリン事件へと繋がったのだ。

 

2018.7.6オウムの早川らメンバー7名が、第4次安倍内閣、上川陽子法相の命令により死刑が執行された。上川自身の統一教会との接点は明らかではないが、総裁選挙推薦人20名に統一教会関係議員5名が含まれていた。

 

キーパーソン早川はロシアに20回以上渡航している。ロシア経由で北朝鮮に入って可能性もある。なぜ、早川を死刑にしたのだろうか。

 

1970.3.31よど号ハイジャック事件を起こし、北朝鮮に渡った共産主義者同盟赤軍派の田宮高麿が、麻原逮捕の半年後、1995.11.30平壌において心臓まひで突然死している(52歳)。前日の29日には、塩見孝也議長を平壌駅で見送り元気だったと。では、早川と田宮に接点はあったのだろうか?

 

統一教会教組の文鮮明は1920年北朝鮮生まれ。1912年生まれの金日成。両者は、1991年に会談を行い、文鮮明が巨額の献金している。平壌にある普通江旅館、ここは統一教会の合同結婚式を挙げた新婚夫婦が訪れるホテルだ。なんとここに「よど号事件メンバー」事務所が入っている。統一教会と北朝鮮が結ばれ、赤軍派とも接点が確認できる。

 

点と点が線でつながれ、おぼろげなストーリーが浮かぶ。著者による大胆な展開を期待したい。