甘粕正彦は、謎の人物である。旧米沢(宮城県仙台市)藩士の子として生まれ、「甘粕事件」の後、満洲国で「満映」の理事長になった。だが、満洲国崩壊後、「満映」は共産中国の長春映画(長映)になり、帰国後の部下達は「東映」で活躍した。歴史の皮肉ではあるが、両国の映画人育成が、国家主義者、甘粕の最大の功績になった。拙著では、以下のように書いた。 

 

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   かつての≪新京駅≫は、現代的な「長春站(長春駅)」に変わっていた。そして、駅の正面には、昔の≪ヤマトホテル≫が「春誼賓館」として残っている。受付でパスポートを見せて料金を訊くと、1泊400元、2泊600元だと言う。彼は3泊することにした。ロビーや階段は豪華な西洋式で、当時の造りだ。ドアには、今も、「東京」、「名古屋」、「富士」などの表札がある。「満洲帝国」時代、このホテルには、かの甘粕正彦が起居していた。

 

            (『国よ何処へ‐平成の日本語学校物語‐』第9章‐8)

 

          

   午後は、かの≪満洲映画協会≫を見に行った。地図には「長映電影宮」とあり、タクシーで門前に着き、35元払って中に入った。構内には毛沢東の白い銅像が建っている。かつての日、この撮影所の主は、甘粕正彦という日本人だった。

 

   甘粕は関東大震災の時に、大杉栄殺しで有罪になり、投獄された。が、真相は不明だ。後に「満映」理事長になり「満洲帝国の〝陰の支配者〟と言われ、敗戦時に服毒自殺した。自殺の前に、日本人幹部に「今後、この会社が、中国共産党のものになるにせよ、国民党のものになるにせよ、これまでここで働いてきた中国人社員が中心になるべきであり、そうするためには機材を大切に保管しておくことが大事だ」(※1)と指示したという。(中略)

 

   「満映」は「満洲帝国」と「満鉄」出資による、〝五族協和〟文化政策拠点だった。『白蘭の歌』や『迎春歌』など、1,000本近い映画を作り、2,000人の社員がいた。だが、戦後は中国共産党に接収され、『白毛女』や『党的女児』など、人民鼓舞の撮影所として稼動した。甘粕が育てた映画技術者達は、主亡き後、共産主義中国建設のために大いに活躍したのだ。甘粕の辞世句は、「大ばくち もとも子もなく すつてんてん」(※2)だった。 

 

                                                                              (同書 第9章‐9)

 

   ※1:佐藤忠男 岩波現代文庫 社会91『キネマと砲聲 日中映画前史』・岩波書店2004年4月16日(325-326頁)

 ※2:角田房子 中公文庫 M14-4『甘粕大尉』中央公論新社1979年5月10日(303頁)

 

  関連リンク:甘粕正彦 - Wikipedia

 

 関連Youtube: 甘粕正彦 - Google 検索