過日、ドキュメンタリー映画「ゲバルトの杜~彼は早稲田で死んだ」を観た。映画館は渋谷のホテル街にあった。あの頃、川口君は同学年だったが、学部が違い、会ったことはない。11.8の後、キャンパスは革マル派糾弾のデモや集会が続いた。そして、中核派と革マル派の闘争にエスカレートし、内ゲバで100名近い犠牲者が出た。

 

   映画の中で、作家の佐藤優氏は、革マル派は川口君を中核派と思ったのだろうと述べ、池上彰氏は、中核派と革マル派の相違点について解説した。また、当時、学生だった人の述懐で、あの時、Ⅰ文の田中委員長がリンチ現場にいなかったこと、既に他界したことを知った。館内の観客は高齢者が多く、若者も数人いた。

 

   内ゲバの起源となった、終戦時の革命運動について、拙著で以下のように書いた。

 

   敗戦後の日本は深刻な食糧難でした。焼け野原の東京には、戦地からの引揚者が溢れていたのです。数十万人の食糧要求デモ(メーデー)が起き、共産党員や左派の在日朝鮮人による暴動が頻発しました。しかし、警察は無力でGHQも不介入でした。野坂や共産党は、今こそ〝敗戦革命〟の時と、47年2月に260万人のゼネストを計画しました。しかし、寸前で、マッカーサーに阻止されました。                                 

            (『国よ何処へ‐平成の日本語学校物語‐』10章‐3)

 

   当時の革命勢力が、1955年に日本共産党と新左翼に分かれ、革マル派や中核派などが生まれたのである。

 

   参考リンク:ユーロスペース (eurospace.co.jp)