私とは何か?
このテーマを考える時、私たちは多くの場合「私の性質」について探ろうとする。
私は正しい。
私は間違っている。
私は良い人間だ。
私は悪い人間だ。
もっと具体的に考えると
私は、強い人間だ。
私は、弱い人間だ。
私は、頭が良い人間だ。
私は、頭が悪い人間だ。
私は、○○が得意な人間だ。
私は、○○が苦手な人間だ。
etc...
しかし、これらの事は、私を知るということのとても表面的な部分である。
なぜならば、私を知るとは、私の存在を認識するということだからだ。
上記のものは、私という存在を言語化しているに過ぎない。
言語化するとは、分類であり、カテゴリー分けすることである。
つまり、私という存在をどのBOXに収納するか?ということである。
「私」を
「頭が良い」と書かれたBOXに収納するのか?
「強い」と書かれたBOXに収納するのか?
「優しい」と書かれたBOXに収納するのか?
これが、言語化である。
しかし、本当の意味で私を知るという事は、その分類しようとしている「私」なる存在をちゃんと感じるということだ。
頭であれこれ考えるものではない。
内側に意識を向けて、感じるものなのだ。
私の性質を探るのではない。
私が存在している場所を探るのだ。
今ここにあって、こう感じている。
これが私なんだ!
これが私を知る、ということだ。
その感じた自分を言語化しようがしまいが、それはどうでもいい。
「私は○○という人間だ」という価値のありそうな言葉にすがる必要はない。
ただ感じていれさえすれば、自分は安心できるから大丈夫。
深く自分を見つめていけば、
きっと誰もが味わえる。
きっと誰でも感じられる。
これが私。
私を知るとは、
今ここにあって、こう感じている。
これが私なんだ!
これが私を知る、ということだ。
その感じた自分を言語化しようがしまいが、それはどうでもいい。
「私は○○という人間だ」という価値のありそうな言葉にすがる必要はない。
ただ感じていれさえすれば、自分は安心できるから大丈夫。
深く自分を見つめていけば、
きっと誰もが味わえる。
きっと誰でも感じられる。
これが私。
私を知るとは、
性質を言語化することではない。
確かにここにあると感じることなのだ。