阿修羅 (興福寺八部衆) | ART and MOVIE CITY COMMENTS

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メモ奈良・興福寺の国宝阿修羅像に関するNHKの番組を見ている。

メモ興福寺は藤原氏の氏寺であり、
阿修羅立像を含む『天龍八部衆(てんりゅうはちぶしゅう)』と称する八体の群像(全て国宝。現在は興福寺仮中金堂に安置)は、
藤原氏出身の光明皇后により天平6年(734)に、前年亡くなった母橘三千代の冥福を祈って興福寺に建てられた西金堂(さいこんどう)での群像の一部として、
同年に造顕されたという。

NHKの番組などのマスコミでは数年ほど前から、
阿修羅などの天平期の諸像を、聖武天皇と光明皇后の間では一人息子であった皇太子・基王(もといおう)への追善のために造立されたと推測する言い方が多いが、その際に、

(基王の、満1歳足らずでの神亀5年〔728年〕の逝去直後、)
『長屋王の呪詛によって基王が亡くなった』との一方的な讒言(ざんげん)を信じた上層部の糾弾により、
長屋王一族が滅亡にまで追い込まれた(神亀6年〔729〕)悲劇的状況
にまで関連づけて言及した例は、聞いたことがない。

つまり、
阿修羅などの西金堂諸像が造られたのは、基王逝去の6年後でもあり、
長屋王一族が滅ぼされた5年後でもあるのだが、

後者に関する光明皇后たちの意識については素通りされて、
(光明皇后は、吉備皇女・長屋王一族が殲滅された後、その現場である邸宅に住み着いたそうだが。※)
専ら光明皇后たちの基王への想いだけが論じられている。


今回の番組では、八部衆像の顔立ちに、幼児から少年への成長を想わせるバリエーションがあり、それが基王が生きていれば見られたであろう成長の経緯を示している、という意味の推測があった。


私は、八部衆というモチーフが、阿修羅をはじめ、元来仏敵であった鬼神などを含んでいる点が気になる。

結論を言えば、
この八部衆像の眉をひそめた哀しげな、かつ、光線の具合によっては険しく恐ろしげにも見える造型は、
藤原氏の対抗的存在であった長屋王一族を暗喩しているのかもしれない。

(勿論この場合、長屋王一族が《仏敵》という意味とは私は考えていない。)



〔※また、《正史》である『続日本紀』(しょくにほんぎ)の記述に、長屋王が自経させられた直後は、彼への激しい非難が読みとれるのが、
後の頁では、長屋王の名誉を回復する記述に改まっている、
とはよく指摘されるけれども、
更に『続日本紀』を読み進めて行くと、また長屋王への前のごとき非難の記述がある。
このことは勿論、長屋王が実際にどういう人物であったか示すというよりも、
当時の《正史》の筆者たちが、長屋王に対してどんな関係性にあったか、を読み取らせる資料として捉えるべきだろう。〕



(加筆予定)