太田記念美術館にて
月岡芳年の代表作『月岡芳年 月百姿』展がであったので行ってきました。
月岡 芳年(つきおか よしとし天保10年<1839年〉- 明治25年〈1892年〉)は、幕末から明治中期にかけて活動した浮世絵師。門下からは日本画や洋画で活躍する画家を多く輩出した芳年は、「最後の浮世絵師」とも称われる。
『月百姿』(つきひゃくし)のシリーズは芳年の歴史故事趣味を生かした、明治期の代表作に挙げられる。今回の展覧会では100点が前期と後期に分けて全点が紹介された。これで入場料1000円は嬉しい限りである。
私的に印象深い6点についてコメントし備忘録とします。
①「月百姿 神事残月」
👆この絵が月岡芳年に興味を持つキッカケとなりました。
と言うのは、広重の同じテーマの絵と比べて、色があまりにも鮮烈だったからです。
👇「糀町一丁目山王祭ねり込」広重画
「山王祭」の華やかな山車行列が江戸城西の半蔵門から城内に練りこもうとしている。「山王祭」は将軍の上覧に供したので「天下祭り」と呼ばれた。それも将軍が関西常駐するようになって、江戸城へ入場することがなくなり、段々廃れていった。画題の「神事残月」は「江戸の残月」という想いが込められているのでしょう。
②「月百姿 金時山の月」
まさかりかついで きんたろうくまにまたがり おうまのけいこ
この絵では猿と兎に相撲を取らせている微笑ましい金太郎の姿が印象的です。伝説では老婆がある日、夢の中に現れた赤い竜と通じ、産まれたのが金太郎と言う。だから体も赤かったのであろうか。のち源頼光が坂田金時と名付けて家臣(四天王の一人)にしたと伝わる。頼光は道長の側近で清和源氏の興隆の礎を築いた人である。
③「月百姿 垣間見の月」かほよ
風呂上がりの顔世(かおよ)を高師直(こうのもろのう)が覗き見している。
鎌倉時代の「太平記」では、権力と金をにぎった高師直は絶世の美人と噂の顔世(塩冶判官の妻)を手に入れたいと付きまとう。が、顔世は貞節を守って相手にしなかった。絵では『或る時、顔世の侍女が「風呂上りのスッピンの顔でもみせたら熱も冷めるだろう」と思い、手引きをして風呂上りの顔世の姿を覗かせるのですが、高師直はますます恋心を募らせた』のだと。
忠臣蔵は赤穂事件を鎌倉時代に仮託して作られているので、高師直は吉良上野介、塩冶判官は浅野内匠頭をほのめかしている。但し、絵のような場面が芝居にあるわけではありません。
④「月百姿 おもひきや雲ゐの秋のそらならて 竹あむ窓の月を見んとは」秀次
関白秀次は秀吉の後継者となりながら、その直後に秀吉に実子秀頼が生まれたため、疎んじられ、結局は切腹させられた。
七月八日、秀次は秀吉に召喚され、聚楽第から伏見へゆく途中捕えられ、そのまま高野山へゆくことを命じられた。そして十五日、切腹の指令が来た。(秀次 享年27歳)
八月二日、秀吉は三条河原で、秀次の妻妾と子、三十余人を大量虐殺した。
絵の月は、秀次が幽閉された高野山でのものであろうか。秀次の胸の内や如何に?
芳年(の絵)は、人物の内面までを観ている。
⑤「月百姿 名月や畳の上に松の影」
講談の神田松鯉(しょうり)さんは、よくおっしゃっいます。「江戸時代、松尾芭蕉よりずっと人気があったのは弟子の宝井其角なんです」。その其角の「名月や畳の上に松の影」が障子に貼ってある。絵には月が描かれていなく右下の松の影がそれを暗示している。ネットを覗いていたら、”松”は”待つ”と掛けているとの"見立て"をしている人がいて面白いとおもいました。
⑥「月百姿 むさしのゝ月」
武蔵野の広さを、室町時代末期の武将•太田道灌は歌によんだ。
露おかぬ方もありけり夕立の空より広き武蔵野の原
(どこかで雨や夕立が降っていても全くそうでないところもある、
武蔵野の空はとても広いのです)
武蔵野の茫漠とした野原に一匹の狐…妖しくも美しすぎないですか。
芳年の「静謐さと緊張感が高い次元で響き合う画風」(wikipanion)にピッタリの
絵ではないでしょうか。
スライドトークの場で学芸員さんは、次のような解説をしてくれました。
「広大な武蔵野を描くのに、あえて一匹の狐に着目することを選び、毛づくろいをしている狐が描かれています。水面には満月によって照らされた己の姿が映っており、何を思ってるのか、じっとそれを眺めています。人間に化けようとしているのかもしれません」(太田記念美術館主席学芸員 日野原健司氏)
おつき合いありがとうございました🙇♂️