昔: 請地秋葉の境内

改印: 安政4年(1857) 8月  

説明板に拠れば、由緒は正応2年(1289)まで遡る。このあたり一帯は五百崎(いおさき)の千代世の森と云われ、千代世稲荷が祀られていた。江戸時代の初め、善財という霊僧が秋葉大神のご神影を彫った。のち、元禄15年(1702)に遠州の秋葉権現を勧請し社殿を造営したという。又、鎮火の霊験(火除けの神)、厄除け開運、縁結び神として、諸大名はじめ多くの人々から尊崇れ……とある。

 

広大な庭園は紅葉の名所として、庶民に人気の高い行楽地だった。池は五千坪に及んだといわれ、その景色を余念なきが如く描いている人物こそは、広重本人と考えられている。私は、この地をよく歩くのだが、ふと五千坪に及ぶ池は何処に在ったのか、調べたくなった。

 

宮尾しげを(A)

「絵にある池は神社の西側にあって、五千坪(一•六ヘクタール)もあったという。秋は池に映る紅葉の美しさで杖をひく風流人は相当多かった。この池は潰されて今はなくなって、向島花柳界の一角として料亭などが居を構えている」

 

人文社(B)

境内の北には、築山や泉水が巧みに造られ、種々の景樹が植えられていて、四季を通じて遊覧の地となっていた。…これに誘い出された広重と思われる人物が下隅の茶店で写生に余念がない」

 

ヘンリー•スミス(C)

「『江戸名所図会』の絵から見て、池は境内の西側で、別当の満願寺の北側にあったとすれば、北東を望んでいることになる。」

 

講談社(D)

「紅葉がちょうど見頃を迎え、秋葉大権現社の境内を彩っている。描かれているのは境内の広大な庭園の西側にあった池の付近で、この池は紅葉の名所として知られていた。」

 

絵の池につい

地図系の人文社だけが「境内の北」と解説しているのに対して、宮尾しげをは神社の西側、ヘンリー•スミスはどうやら「江戸名所図会」を根拠にして「境内の西側」と判断しているようだ。講談社も「江戸名所図会」を見て単純に「庭園の西側」と言っているように思われる。

 

パソコンに搭載の「大江戸今昔アプリ」を開いて見ると、かつては広大な敷地を有していた秋葉神社が昭和に入って開通した国道6号によって真っ二つにされたことがよく分かる。しかし、五千坪とも云われる池が何処にあったのかは判然としない。

 

江戸末期

 

現代

👆赤丸の数字はウオーキング順に撮った写真番号です。赤の楕円は、五千坪の広さを表しています。

 

そこで、ある日、図書館に出向き探り出したのが、(E)『江戸百景を歩く』だった。この本は、『江戸百景』のうち、隅田川向島地区の10景を、散歩コースに組み入れて、どの絵が現代のだいたいどの地点に対応するかを解説している。

 

解説に使っているのは、やはり『江戸名所図会』でしたが、池の場所を丸で囲み、国道六号•新水戸街道を線で示してあった。「池は何処に在ったのか」その願いが叶ったようで、本を開いたとき、嬉しかった。

 『江戸名所図会』(国会図書館蔵)の「請地秋葉権現宮千代世稲荷社」

中央を通る道の右に本殿、中央の下に別当満願寺、その左上に林泉(赤丸)が描かれている。

中央の斜線は、現代の水戸街道を表しいます。

 

では、「池」は、いったい現代のどの辺りに在ったのか?

 

(E)『江戸百景を歩く』の結論は

『「さくらんぼ児童遊園」……ここが往時の境内の広い池の一部と推測されます』と。

 

歩いた順番に写真を撮ってみた。

①昔の神社の森の名残りか?北に伸びる細い路が幾つもあった

 

②この辺りが秋葉神社の境内の端だったか?

 

③〈うなぎの大和田〉の先の緑が今の秋葉神社

 

④昔とは方向が逆になった本堂と鳥居

 

⑤水戸街道越しに見た秋葉神社(中央の緑)と東京スカイツリー

 

今: さくらんぼ児童遊園⑥……この一角が昔は池だったと思われる

撮影 令和8年(2026)7月

 

⑦言問小学校の南端…秋葉神社の境内はこの辺り(北端)まであった。

 

⑧櫻茶ヤ

 

⑨言問団子

 

⑩長命寺桜もち山本や

 

 

 

見ていただきありがとうございました🙇‍♂️

 

【主な参考図書】

(A)『名所江戸百景』集英社 若菜正/文•宮尾しげを 1992年

(B)『江戸切絵図で歩く広重に大江戸百景散歩』人文社 堀晃明 2008年

(C)『広重名所江戸百景』岩波書店 ヘンリー•スミス 1992年

(D)『広重TOKYO名所江戸百景』講談社 小池満紀子 池田芙美 2017年

(E)『江戸百景を歩く、隅田川向島•北十間川編』恒春閣 渡部良雄 2024年