岸田秀 唯幻論始末記

私の薄ーい読書歴のなかでも印象が深いのは

岸田秀の本との出会いであった。

1980年頃であろうか、確か「話の特集」という雑誌

かなにかで伊丹十三が「岸田秀」を絶賛していた。

 

その岸田秀の

『ものぐさ精神分析』(1977年発行)を読んで、私は頭骸骨や脳ミソが

ガタガタ震わせられるような衝撃を受けた。ちょっと大袈裟ですが。

いまでも同じだけれどぼんやりしていた観念(自我とか心理とか

社会の常識に対する)に、これ以上ない鋭い解説•回答をくれたように

おもった。いい意味でのショックだった。

 

伊丹十三は「…私は自分の目の前の不透明な膜が弾けとんで、

目の眩むような強い光が射しこむこむのを感じ始めたのである」

と書いている。私は「なるほど!」とか「確かに!」とおもいつつ

彼の作品群を読み進んだのでした。

80年代……もう何十年も経ってしまった。

 

最近ネットで岸田秀最後の作品『唯幻論始末記』(2018年12月発行)

という本があることを知った。1933年生まれだから?…と失礼ながら

wikipanionでお元気でいらっしゃる(?)ことを確認して、即、

借りて読んだ。

 

さすがにデビュー当時のようにネルギー満々では

ないけれど、論に全くぶれはない、ありようもない。

むしろ彼の”「唯幻論」の成り立ち”となった母親や

家庭のことについて紙面を多く割いていて、わかり易く、

楽しく…短時間で読むことができた。

 

本を紹介するに当たり、私のヘタな説明より本人の弁を

そのまんま載せさせていただくことにしました。

本の好きな方、名前だけでも覚えていただけたらと

願っている。

 

本の冒頭

わたしは、人間とは本能が壊れて幻想の中に迷い込んだ動物であって、人間に特有な現象や行動はすべてそこに起源があると考えており、その考えを唯幻論と称している。唯幻論には大きくわければ、性的唯幻論史的唯幻論とがある。簡単に言えば、性的唯幻論とは人間の性行動は本能ではなく幻想に基づいているという説である。幻想に基づいているから、人類には発情期がなくなり、幻想によって興奮すればいつでも性行できるようになったのである。史的唯幻論とは歴史をもつのは人類だけであり、歴史は政治や経済や法律などの現実的条件によってではなく幻想によって動いているという説である。歴史が幻想によって動いているから、人類は文化を創造したのである。

 

 

 

「自己満足の世界」へお立ち寄りありがとうございました🙇‍♂️

 

 

 

2020/12/24と2020/12/26 ブログを始めたころ

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