昔: 品川すさき

             改印: 安政3年(1856) 4月 

品川宿は四季を通して眺望の優れた所であった。多くの絵師が作品を遺しているが、広重の「品川すさき」は、画面下の左に有名な妓楼•土蔵相模、中ほどに洲と弁財天、奥にはのどかな江戸湾を画面の半分を使って仕上げている。右には二基の台場も見える。広重画の特徴の一つ•俯瞰手法であるが、絵だからこそこのように俯瞰した絵が描けるのではないでしょうか。板目摺が波紋のように広がり、これは浮世絵の面白さである。

 

今: 品川の幕末を想う

 

① 左•土蔵相模跡の碑

旅篭屋を営む相模は外壁が土蔵のような海鼠壁だったので「土蔵相模」と呼ばれていました。一八六ニ年(文久ニ)品川御殿山への英国公使館建設に際して、攘夷論者の高杉晋作や久坂玄瑞らは、この土蔵相模で密議をこらし、同年十二月十二日夜半に焼き討ちを実行しました。幕末の歴史の舞台となったところです。

 

② 土蔵相模跡の裏に水辺がありました

 

③ 利田(かがた)神社

洲崎は現在品川一丁目で埋め立てにより海は遠く離れた。洲崎弁財天は、周辺が埋め立てられ利田新地と呼ばれるようになり、明治期神仏分離令により、利田神社と名を改めた。

 

④ 鯨塚

境内にある鯨塚は、江戸を驚かせた三大動物の一つ「寛政の鯨」の骨を埋めた上に建てられた供養碑です。寛政10年(1798)5月1日、品川沖で体長九間一尺(約16.5メートル)、高さ六尺八寸(約2メートル)の鯨が現れ、品川の漁師たちが捕獲しました。この大鯨は江戸中の評判となり、11代将軍徳川家斉が浜御殿(現在の浜離宮恩賜庭園)で上覧されたほどの大騒ぎとなりました。

 

⑤ 台場小学校

台場小学校は、昔の御殿山下台場の約半分の面積にあたるらしい。

 

⑥ 東海道新宿本陣跡

 

⑦ 品川女子学院辺り

最も多く土取りされたのはこの辺り(品川女子学院辺り)だと言われています。

 

⑧ 御殿山の滝…パノラマ写真

ここの谷(土砂)も台場造成に使われたのであろう。

 

⑨ 新八つ山橋からみた御殿山

それにしても御殿山は今のJRが山の中腹を削り取ったことがよくわかります。

 

東京マリオットホテルの最上階にレストランかカフェがあれば、品川の海を見渡せるだろうと期待したのですが、そのような場所は全くなく残念でした。

 

 

見てくださりありがとうございました🙇

 

 

 

 

    〜附録〜

 

幕末の台場造成に関する簡単メモ

 

◎嘉永六年六月三日(1853年7月8日。カッコ内の日付は太陽歴による)

アメリカのペリー艦隊が、蒸気船二隻帆船ニ隻で浦賀沖にやってきた。

 

泰平のねむりをさます上喜撰(蒸気船)

   たった四はい(杯)で夜も寝られず

 

第一御炮台場 10276坪9号4勺

嘉永六年八月着工、安政元年四月完工

 

第ニ御炮台場 10276坪9号4勺

嘉永六年八月着工、安政元年四月完工

 

第三御炮台場 8526坪余

嘉永六年八月着工、安政元年四月完工

 

 

◎嘉永七年(1854年)正月、ペリー艦隊が前年来航時の予告どおり

神奈川(横浜)沖に現れた。(品川に炮台が出来たので横浜に引き返した)

蒸気船三隻を含む七隻の艦隊だった。

 

改元【嘉永→安政(1855年1月15日)】

 

世の中が安き政りと成ならば

     嘉永そうなる人がたすかる

 

第四御炮台場 

安政元年十一月着工、埋立終了後工事中止

 

第四御炮台場の代わりに

御殿山下御炮台場 7386坪余

安政一年一月着工、同十一月完工

 

第五御炮台場 5773坪余

安政元年一月着工、同十一月完工

 

第六御炮台場 5432坪余

安政元年一月着工、同十一月完工

 

第七御炮台場 

安政元年十一月着工、埋立終了後造成中止