昔: 井の頭池と弁天さま

    絵はwikip anionより保存したものに改印年月を追記して転載

🖼廣重は、前面左側に弁天の社、中央から奥には広大な池、その先には日光の山並みを配して一幅の絵にしている。三代将軍家光が寛永6年(1629)にここを訪れた際、自らの小柄(こずか)で池の傍らにあったこぶしの木に「井頭」と彫った、以後この池をもっぱら井の頭と呼ぶようになったとされています。

 

家康が豊富な湧水に目をつけて、承応年間(1652〜1654)に神田まで引水させて、江戸っ子の飲み水とした。上水が完成したのは家光の時で、これを神田上水と名付けたという。絵の弁財天は、当初江戸っ子の水瓶であり、水の神、また財をもたらすとして江戸の商人からも親しまれた。江戸市民の一大行楽地でもあったようです。

 

今: 江戸の風情漂う〜井の頭‼️

ここの弁財天の起源は、家康登場を七百年も遡る天慶年間(938〜947)のことといわれています。伝教大子作と伝わる天女像を安置したのに始まり、その後、源頼朝が東国平安を祈願してお堂を建立したと伝わっています。めちゃくちゃ古いです。

 

正面に弁天堂を捉えましたが、常夜燈の日本橋の文字が目立ちます。これについては後で触れます。

 

家康が豊富な湧水に目をつけて、承応年間(1652〜1654)に神田まで引水させて、江戸っ子の飲み水とした。上水が完成したのは家光の時で、これを神田上水と名付けたという。神田上水は、その後の承応三年(1654)玉川上水が開通するまで、江戸の主要な上水をまかなった。

左側は橋ですが、その名は「お茶の水橋」となっています。

右の小さな看板には、次のことが書かれています。

 お茶の水

井の頭池は豊富な湧き水に恵まれ、かっては三宝寺池、善福寺池とともに「武蔵野三大湧水池」と呼ばれていました。徳川家康がこの湧水を関東随一の名水とほめてお茶をいれたと言う伝説から「お茶の水」という名が付いたともいわれています。現在では湧水減少のため、地下水をポンプでくみあげています。

 

千代田区にJR〈御茶ノ水駅〉があります。その由緒について芳賀ひらく氏は、「地名としては単なる俗称で、しかも神田川の北沿いを漠然と指したもの。しかしながらその由緒は正しく、二代秀忠の時代に行われた堀割工事で出来した清水が、将軍の茶立て専用水にされたことによるのです」としている。成る程、"御"の字が使われていることに納得できます。上の家康の説と競合するのかどうかはよく分かりません。

 

常夜燈の話になります。

日本橋の商人七人が彫ってある。もしや『江戸買物独案内』に名前が載っているのでは?と調べてみました。三人は容易に見つかりました。

有名な「にんべん」について

明治維新後、皇室領地になっていた池とその周りは、東京市に払い下げられて、大正6年に公園となりました。明治22年には甲武鉄道(いまの中央線)の新宿・立川間が開通、32年に池の北500mに〈吉祥寺駅〉ができ、昭和8年には井の頭線が吉祥寺と渋谷を結び〈井の頭公園駅〉ができた。

 

武蔵野の中腹とは言え、電車から見廻しても住宅だらけで"高み"(この辺りの標高は50〜55m)は全く感じられない。今、湧き水は涸れ、ポンプ(5台と聞いたことがある)で汲み上げているそうだが、それでどれだけの水量が保たれているのか? ボートが浮かんだ池を見て不思議に思った。

▼七カ所から湧き出たので「七井の池」とも呼ばれたようです。

古地図と現在の地図を見比べて、池の大きさが殆ど変わっていない。森も池も懸命に維持管理されているとみた。

 

以上