昔: 深川三十三間堂

                絵はwikipanionより保存したものに改印年月を追記して転載

🖼江戸初期のこと、武士の弓術稽古のため、京都東山の三十三間堂を模して、当初は浅草の地に建立されたが、後、深川に移り〈深川三十三間堂〉とも呼ばれた。三十三間先の的に数多く射ったものを名人と呼んだらしい。弓は堂の南縁から北縁に向かって放たれた。絵では弦を離れた矢を追って七人の見物人が左手の的に顔を向けたところ、まさにその瞬間が描かれている。

 

江戸初期の寛永20年(1643)、弓師の願いによって浅草(今の台東区松が谷2丁目)に建立された。

が、元禄11年(1698)火事で消失。元禄14年(1701)に今の地に移転•再建された。

 

▼富岡八幡宮(江戸名所図会)、北東に三十三間堂が見えます

 

 

今: 〈三十三間堂跡碑〉と〈数矢小学校〉

この地図一帯は、昔は川に囲まれていて永代島とも呼ばれた

 

📷昔の〈三十三間堂〉は、深川不動前交差点から約200m東に行った所に建っていた。今は跡地に「三十三間堂跡」碑があり、それを撮影。通行人の右手です。

 

▲写真の道路と歩道を併せた一帯を南北に堂が建っていた

 

明治2年(1869)この地の町名は、「通し矢」にちなみ深川数矢町となったが、関東大震災後の区画整理によりこの町名は廃止された。

現在では、「江東区立数矢小学校」の校名と「三十三間堂跡」碑が名残りを留めている。

 

数矢小学校は現在、"増築その他改修工事中"となっていました

 

 

絵のように堂の東側の川を同一画面に取り込む のは無理です

中央左の茶色の建物の西側が、上の写真の右手になります

 

以上、見ていただきありがとうございました😊