日本のアニメーション歴史年表 その2 1945(昭和20)年~1967(昭和42)年 | 日本アニメ視聴館  アニメ公式配信紹介

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「日本のアニメーション歴史年表 その2」1945年(昭和20年)戦後から1967年(昭和42年)にかけての著名な作品を年表形式で記しています。

 

公開していますが、常時追記しています。

更新内容

2017年11月3日

持永只仁関連記載

2017年9月8日

一部追記
2017年1月22日
データ容量により
『日本のアニメーション歴史年表  その1 1917年(大正6年)~1967年(昭和42年)』を
『1917年(大正6年)~1945年(昭和20年)』
『1945年(昭和20年)~1967年(昭和42年)』に分割

当ウェブページでのアニメーション歴史年表は
アニメーション全般(TVアニメ・アート・実験アニメーション・各映画)を範囲としています。


【1945年から1967年にかけての特徴】

戦後のGHQ制作によるアニメーター結集から解散を経て、民間アニメ―ション制作会社創設と制作体系の確立 虫プロダクション、東映動画、タツノコプロ、エイケン、東京ムービーなど

リミテッド方式を導入したTVアニメ制作開始とアニメジャンルの多様化にともなう制作本数の増加

手塚治虫発案のアニメ制作手法とマーチャンダイジング活用

ラジオ・TVで活躍する声優の登場

子供たちへのアニメの浸透 漫画原作・オリジナルアニメ

アニメ―ション三人の会や手塚治虫によるアート・実験アニメの活性化など



昭和期 終戦後

1945年(昭和20年)


9月
新日本動画社設立
山本早苗、村田安司、政岡憲三などのいわゆる第二世代アニメーター総勢100名が集結
背景にGHQ(占領軍総司令部)による占領政策の一環と言われている

月不明
戦中、中国へ渡っていた持永只仁 満州映画社入社 東北映画製作所で教育宣伝映画製作のかたわら映画技術者養成を行う


1946年(昭和21年)

「魔法のペン」 製作 京都映画社  制作・演出 熊川正雄
戦後復興への願いを込めたファンタジー作品 熊川は正岡憲三の弟子
人形が動きだし、主人の少年と交流する展開は少し「ローゼンメイデン」にも通じ、ビル群が地面から伸びてゆくシーンも興味深い  制作・エピソードはコチラ(熊川正雄 略伝)
 


「桜(春の幻想)」 政岡憲三 作 ※一般公開されず

 

 

1947年(昭和22年)

新日本動画社解散▲
▲この頃の資料が少ないうえ、新日本動画社の解散月が不明

9月 「すて猫トラちゃん」(政岡憲三 作) 公開 
画像のシーンは石垣を登るキャラクターが動きながら背景画ともに180度回転する当時非常に高度なシーン いわゆる背景動画で政岡憲三氏の着眼点の豊かさが発揮されている

 

持永只仁 東北電影(中国)製作「皇帝の夢」の人形操作を担当 中国初の人形アニメーション作品

1953年まで中国でアニメ―ション制作技術者育成に貢献する

 

 

1948年(昭和23年)

日本漫画映画社設立 山本早苗・村田安司・政岡憲三ほか参加 その後、山本・政岡が分離独立

日本漫画映画社に瀬尾光世参加
「王様のしっぽ」(瀬尾光世監督)制作するも配給会社の東宝からクレーム発生により公開できず 多額の制作費用の回収が出来ず日本漫画映画社倒産

独立した山本早苗・政岡憲三らは東宝の出資援助によって日本動画(株)設立 藪下泰司・森康二参加
社長に山本早苗就任


1949年(昭和24年)

その他のできごと 湯川秀樹日本人初のノーベル賞受賞


1950年(昭和25年)

9月26日 世界初のカラー長編アニメーション映画「白雪姫」(1937年アメリカ公開)日本で初公開

持永只仁 上海の映画製作会社でアニメーション部門創立に参画 人形アニメーションの研鑽を積む


1951年(昭和26年)

東横映画(株)と太泉映画(株)を吸収合併し商号を東映(株)に変更し新発足 映画製作・映画輸出入・各種興行を行う 初代社長 大川博 この頃は本格的なアニメーション映画は制作していない

その他のできごと サンフランシスコ講和条約調印


1952年(昭和27年)

日本動画株式会社、東宝図解映画社を吸収し日動映画社に改組

日本テレビジョン(TCJ)株式会社 設立


1953年(昭和28年)

2月 NHKテレビ放送開始
8月 日本テレビ放送開始

カンヌ国際映画祭短編部門に大藤信郎作「くじら」(カラーリメイク版)が2位入賞 上映会に参加していたピカソやコクトーに絶賛される
 

 

民放テレビ(日本テレビ)CM第1号としてセイコー時報CM放送開始 おとぎプロ制作

第1号はフイルムが裏返しになっていたハプニングにより正午の時報は3秒で中止となり、第2号となる夜7時の時報CMからとなった。

 

 

持永只仁 帰国

 


1954年(昭和29年)

東映(株)
教育映画の自主製作を開始(教育映画部設立)

初の日本語吹き替え映画「ダンボ」公開
11月 東宝製作 特撮映画「ゴジラ」公開 


1955年(昭和30年)

日動映画社、東映からの委託作品「うかれバイオリン」制作 これがきっかけとして日動映画社はその後東映に買収

漫画家 横山隆一 自宅にスタジオを設置 短編映画「おんぶおばけ」完成 翌年よりアニメーション制作のため「おとぎプロダクション」設立

持永只仁 人形映画製作所創立  内田吐夢が東映動画合流を提案するも持永は否定し、実現せず

「まんが スーパーマン」 日本初の吹き替え放送 大平透参加


1956年(昭和31年)

7月 東映動画(株) (現 東映アニメーション)発足
日動の練習生として所属していた大塚康夫が東映動画に臨時採用入社

「瓜子姫とあまのじゃく」完成 持永只仁制作国内人形アニメーション作品としては第1作目
「ちびくろ・さんぼのとらたいじ」公開 人形映画製作所 持永只仁

その他のできごと 日ソ共同宣言 国際連盟加入

1957年(昭和32年)

藪下泰司 アメリカの大手アニメーションスタジオ視察 アメリカの分業システム(工程別制作システム)を導入 作画・撮影・録音全ての工程が社内で行える体制を整備
東映動画 スタジオ竣工 冷暖房完備であった

「ビールむかしむかし」公開 朝日麦酒50周年記念作品 PR人形映画 持永が人形操演、弟子の川本喜八郎が人形制作を務めている

宮崎駿 ロシアのアニメーション映画「雪の女王」を鑑賞 感銘を受ける

1958年(昭和33年)

林重行(りんたろう)、杉井ギサブロー 東映動画入社
山口康男 東映 東京撮影所 入社

10月 東映動画長編アニメーション映画第1作「白蛇伝」公開(製作担当 山本早苗 藪下泰司監督・脚本) 📺
日本初となる本格的カラー長編アニメーション映画 製作期間2年5か月、作画枚数21万4千枚、動画枚数6万5千枚、制作費4千万円(当時)

白娘役の当時新人女優だった佐久間良子の動きを撮影したフイルムを基に動画を制作するライブアクション方式も導入している 当時、ジャイアントパンダは日本では知られておらず(初来日は1972年)、数少ない資料から原画スタッフの森康二が描き出したエピソードがある

公開された10月22日は日本動画協会の協議により、2017年に日本記念日協会より「アニメの日」として正式登録された

 

AFFT2017 コラボレーションカフェにて


東映動画長編映画第3作「西遊記」制作に際し、手塚治虫を原案構成、演出として参加※
※手塚原作漫画「ぼくの孫悟空」をベースにした作品
手塚治虫 初のアニメーション関連の仕事を受け持つ 東映動画でアニメーション制作法を学ぶ


TVアニメ・カラー彩色TVアニメ「もぐらのアバンチュール」 原案・監督 鷲角博
同年6月制作完成 10月15日 日本テレビにて放映
日本初の国産TVアニメ作品であり、カラーアニメ作品 カラー放送実験期間中で実験的要素が強いことと1話のみの放送で長らく日本テレビのフイルム倉庫に保管されていた

「もぐらのアバンチュール」日テレオンデマンド 📺(有料)

 


2013年6月17日の朝日新聞記事

参考 「もぐらの アバンチュール」日本最初のカラーTVアニメの“発見” WEBアニメスタイル
55年前に放送 日本最古のアニメ…その秘密 日本テレビ「スッキリ!!」

桃屋「ごはんですよ!」TVCM開始 三木のり平を主役にしたアニメCM アニメ制作は日本テレビジョン株式会社(現TCJ) 2012年まで続いたが、2018年の生誕60周年にエイケンのデジタルリメイクが放送予定 📺 (のり平アニメCMギャラリー/桃屋)

その他のできごと 東京タワー竣工 長嶋茂雄読売巨人軍入団


1959年(昭和34年)

東映動画 「少年猿飛佐助」公開
高畑勲・小田部羊一 ・池田宏東映動画入社

「ひょうたんすずめ」公開  横山隆一制作 
テンポの良いアニメーションと軽快なジャズ、当時珍しい楽屋オチギャグなど、心のおもむくままに演出、展開がとられているが漫画家ならではのユーモアにあふれている

 

 


1960年(昭和35年)
 

漫画・アニメーション・特撮技術に秀でたマルチクリエイターうしおそうじによるアニメ制作会社

「株式会社 ピー・プロダクション」設立

8月14日 「西遊記」公開  監督 薮下泰司  演出 手塚治虫・白川大作

漫画家 久里洋二、デザイナー 真鍋博、イラストレーター 柳原良平により「アニメ―ション三人の会」発足
 
作家性と実験的要素をふんだんに取り入れた「見るだけのアニメ」から「作るアニメ」(自由な発想と表現)を提唱し観客の意識改革を目指す運動が始まる

「FLOWER」 久里洋二 1967年作品

 

 

 

1961年(昭和37年)
4月 NHK「みんなのうた」放映開始 当初よりアニメーションを活用した楽曲を放映
6月 手塚治虫 プロダクション動画部設立


1962年(昭和37年)

1月 プロダクション名を虫プロダクションに変更
9月 
おとぎプロダクション「ヒストリーカレンダー」放映開始 国産テレビアニメの先駆け
「鉄腕アトム」パイロットフイルム制作開始
10月 「ある街角の物語」完成 手塚治虫原案・構成

10月 株式会社竜の子プロダクション設立 漫画家 吉田竜夫が中心に設立

11月5日 「ある街角の物語」・「鉄腕アトム 第1話アトム誕生」上映
12月 虫プロダクションが株式会社化され新発足



1963年(昭和38年)

1月1日 国産初となる毎週30分枠TVアニメ「鉄腕アトム」フジテレビで放映開始

2月2日 「ある街角の物語」毎日映画コンクール第1回大藤信郎賞受賞
同年「ある街角の物語」はこのほか複数の映画賞受賞

3月 アメリカテレビ局NBCとの契約交渉のため渡米
3月10日 ニューヨークで「鉄腕アトム」試写会開催

TCJにアニメ制作スタジオ 「エイケン」新設

宮崎 駿 東映動画に定期採用入社
古川タク 久里洋二実験漫画工房入社

5月 中野区にスタジオゼロ設立 創設メンバーはかつてのトキワ荘メンバーの鈴木伸一、藤子・F・不二雄(藤本弘)、つのだじろう、石ノ森章太郎、藤子・A・不二雄(我孫子素雄)

9月 アメリカNBCテレビで「鉄腕アトム」の放映開始 第1話視聴率27.4%
海外では「ASTRO BOY」と改題

「鉄腕アトム」でTVアニメ作品史上初となるマーチャンダイジング導入 キャラクターグッズ使用許諾制版権ビジネスによる収益確保を可能にした

手塚治虫記念館展示より


セル画の再利用としてストック(バンクシステム)、3コマ撮り、口パクなど徹底したリミテッドアニメ制作・コスト削減が注目されているが、幼少期から自宅にあった映写機で自ら沢山の映画を操作しながら見て来た漫画家でもある手塚ならではのカット割りと工夫、そして魅力あるストーリーにする事で結果的に子供たちの大ヒット作品となった
※シンプルなアニメーション表現としては1940年代にUPA(ユナイテッド・ピクチャーズ・アメリカ)のアニメーション映画実用例があった



9月 出崎 統 虫プロダクション入社
9月15日 TCJ初のTVアニメ「仙人部落」放映開始 ※日本初の大人向けTVアニメ
10月20日 「鉄人28号」 フジテレビ系放映開始 巨大ロボットアニメの先駆け
11月7日 「エイトマン」 TBS系放映開始
11月25日 「狼少年ケン」 NET系放映開始 東映動画初のTVアニメ作品 📺
制作部長は政岡憲三・山本早苗からの指導を受けた経歴のある藪下泰司


12月 映画「わんわん忠臣蔵」上映 監督 白川大作  宮崎駿の初仕事


1964年(昭和39年)

1月13日 日本初の連続カラーTVアニメ「ドルフィン王子」フジテレビ系列 放映開始 
※計3話 試験的にカラー制作・放映TVアニメといわれている

1月

「0戦はやと」放送開始(~10月)フジテレビ系列 ピー・プロダクション元受TVアニメ品第1号

1月25日放映 鉄腕アトム 「地球防衛隊の巻」をカラー放映 TVアニメにおける実用試験的事例 反響は大きかったとのこと

富野善幸(現:由悠季) 虫プロダクション入社

8月3日 株式会社東京ムービー制作「ビッグX」放映開始



「ルドルフ 赤鼻のトナカイ」公開 アメリカのヴィデオクラフト・インターナショナル社からアメリカ向けの人形アニメーションの作り手として持永(MOMプロダクション)に依頼

脚本・絵コンテはアメリカから送られ、人形制作と撮影をMOMが行うという制作体制で行われたが、英語で台詞1語1語のフイルムコマ数の指示に従うという極めて細かな操作・撮影が要求されていたこと、下請け体制で持永自身の作品制作ができない、大規模長編による人件費により困難な経営を強いられたことが負担となり、1967年にMOMを退社 一度、アニメーション制作から手を引いてしまう しかし、1964年に公開した「怪物の狂宴」は当時14歳のティム・バートンに強い印象と影響を与えた
Mad Monster Party - Making Of A Classic Part 1 📺  Part 2 📺 ※全編英語


【コラムっぽいもの】  

『手塚治虫の夢、叶う -漫画の神様、アニメーションの神様に出会う-』

手塚治虫のディズニー作品への敬愛は幼少期から始まっており、映画「バンビ」に至っては映画館で80回以上は観たと明言し、漫画まで描いてしまう。作風にまでディズニーの影響を見せる筋金入りのディズニーファンであることは有名ですが、手塚治虫がウォルト・ディズニーに会うことを強く願っていたことも手塚氏本人の言葉で残されています。

アメリカへ出張した際、何度かウォルト・ディズニー・カンパニーへ赴いたそうですが、残念ながら会える機会に恵まれなかったものの、諦めず1964年ニューヨーク世界博覧会の会場で、ついにウォルト・ディズニーと言葉を交わすチャンスが訪れます。

ステージで挨拶を終え、降りて来たW.ディズニーに手塚治虫は緊張しながらも自己紹介とアストロボーイの制作者であることを告げるとウォルト・ディズニーはこう答えたといわれています。

「それなら私も知っている・・・見事な作品です。」※

続けて感想も聞くと

「非常に興味深い科学物語だ。これからの子供たちは宇宙を見ています。」

「私もひとつ作ろうと思っている・・・」※

※コメント一部抜粋 引用元「日本のアニメ全史 世界を制したアニメの奇跡」より

この出来事は手塚治虫にとって子供からの純粋な夢がまさに叶った瞬間だったのではないでしょうか。

ただ、大人になった手塚治虫にとっては単にファンとして会うということに満足せずアニメーションにおいて数々の世界初の偉業を成し遂げたウォルト・ディズニーに認められるだけの経歴をもって会うことに意義があると考えていたように思えてなりません。

日本最初の連続TVアニメ・アメリカ初進出となる日本製TVアニメ、日本最初と評価されるカラーTVアニメ※等・・・制作に多少負荷やリスクがかかってでも、日本初のパイオニアになることで、ウォルト・ディズニーに会って価値のある話をして評価を得るための最大限の努力を行った気がしてならないです。

※「ジャングル大帝」が完成した翌年12月15日にウォルト・デイズニー死去

いずれにせよ幸運にも会話でき、評価を得ることができた手塚治虫にとってこの出来事は一生の宝物になったでしょうし、その後の制作のモチベーションに一層拍車がかかったのではないでしょうか。

ウォルト・ディズニーに出会えた手塚治虫はこちらのイラストのような気持ちだったのかもしれません。
子どもたちの夢や希望を描く(人間の業や悲劇も描いてますが)手塚治虫にとって自身の夢を叶えることこそ重要な力の源だったのではないかと思えてならないのです。
※上記述は推測を含みます

手塚治虫 Google Arts & Culture

その他のできごと 10月1日 東海道新幹線開通 
10月10日~24日 東京オリンピック開催


1965年(昭和40年)

5月 「宇宙エース」 放映開始 タツノコプロ初制作作品

 


8月 「オバケのQ太郎」TBS系列放映開始 ギャグアニメの先駆け

10月6日 連続カラーTVアニメ「ジャングル大帝」放映開始 全52話 
原作漫画と放映後の各受賞および推薦作品による知名度、30分枠連続TVアニメによって一般的に「ジャングル大帝」が日本初の連続カラーTVアニメという評価がなされている
音楽は冨田勲が担当 本編シーンとオリジナル楽曲をうまく同調させた構成・演出はTVアニメ史上初の試みと思われる

手塚治虫記念館 「ジャングル大帝」大1話絵コンテの展示 色鉛筆で記されている箇所がある

 



↑Lamp

1966年(昭和42年)

1月 連続特撮TV番組「ウルトラQ」 TBS系放映開始 「ウルトラマンシリーズ」第1作
2月 「おそ松くん」(初代) MBS系列放映開始
7月 「ウルトラマン」(特撮)TBS系列放映開始
9月1日 虫プロ商事発足
12月 「魔法使いサリー」 NET系(現テレビ朝日)放映開始 
日本初の少女向けアニメおよび魔女っ子(魔法少女)系アニメ 📺

その他のできごと 日本の総人口1億人突破 ビートルズ来日


1967年(昭和42年)

天野喜孝(嘉孝) タツノコプロ入社
4月 「マッハGoGoGo!」 フジテレビ系列放映開始
日本初のカーレースアニメ 




「リボンの騎士」(~68年4月)

日本のテレビアニメ史上2番目にあたる少女向け作品 1966年にTVアニメ番組「虫プロランド」企画に際しパイロット版が制作されたが諸般の理由で中止となり、67年にアメリカNBCネットでの放送企画としてプロジェクトが再浮上し、30分枠テレビアニメとして放送を開始した経緯がある

 

パイロット版(1966年11月)

 

少女向けカラーTVアニメ作品としては初となる

 


1945年から1967年までの日本のアニメーションの歴史は以上です。
22年間の歴史を1ページで紹介となりましたが、データ容量の関係上かいつまんでの紹介になってしまいました。

 

戦後、アニメーション制作会社の統合と再編期を経て、本格的アニメーション制作スタジオ東映動画が発足し、ほぼ同じ時期にTV放送という新たなメディアが生まれ、東映動画作品制作に参加した手塚治虫(虫プロダクション)が得たノウハウと独創的アイデアで、現在のTVアニメのひな型となる制作・マーチャンダイジング手法を生み出した経緯は現在のアニメコンテンツにとても大きな影響を与えています。

 

また、この年表では少しだけ触れていますが、TV番組から新たに連続30分枠での特撮番組の登場もTVアニメとのシェア(人気)を競い合う「アニメ―ション」と「実写」という異なる性質の映像娯楽作品として、当時観ていたお茶の間の子供たちの感性に大きく影響を与えたといっても過言ではないでしょう。

 

その子供たちの中から次の時代を担うアニメーションや特撮のみならず、イラストや芸術・漫画etc…あらゆるコンテンツで活躍するクリエイターが活躍することになります。


できるだけ正確を期するよう資料、書籍、作品ディスクなど確認に努めましたが、万が一、間違い等ございましたら、いちアニメーションファンの浅学によるものでございます。その際はご指摘、ご教授下さいますようお願い申し上げます。

日本のアニメーション歴史年表 その3 1968年(昭和43年)~1989年(昭和64年)はコチラ

参考
日本アニメーション映画史 山口且訓・渡辺泰 共著
日本のアニメ全史 世界を制した日本アニメの奇跡 山口康男 編著
日本アニメーションの力 85年の歴史を貫く2つの軸 津堅信之 著
WEBアニメスタイル

ニッポンアニメ100 NHKウェブサイト
各アニメーション制作会社ウェブサイトほか各展示、資料