生き方とか難しく考えないなどと言いながら、
考えてしまうのが生き方というもので。
俺は信仰者だから、基本的な思想はそれに由来する。
このように言うと、日本人の大半は拒絶反応を示す。
戦後の日本において
宗教は絶対悪のように扱われている。
良心的な人は宗教に理解を示し、
信念に従い生きることに共感すらする。
正しい目で見れば、信仰は誰もが持っているもの。
日本人は宗教を嫌うけれど、宗教嫌いではない。
日本人が大事にしているイベントや
人生の節目の儀式は、全てが宗教に由来する。
っていうのは、
今では一般常識レベルで認識されている。
それほどに、日本人は信心深い民族。
話をあらぬ方向に飛ばすようだが、
最近の日本の低迷ぶりは尋常じゃないように見える。
サブプライム問題から、欧州危機の煽りを受け、
隣国の韓国や中国、またインドなどにも
後れを取りつつある。
今は過去の栄光で生きながらえる
「イタい上司」
みたいな国になっている。
昨年の東日本大震災で東北が壊滅。
首都圏、東南海の巨大地震も危惧され、
頼りなく期待できない政府のパフォーマンス型政治で
混迷の度は深まるばかり。
国も、経済も、そして何よりも大事な人間も
疲弊しきっている。皆が光を求めながら、
先の見えない不安を抱えているのに、
明確に道を示してくれる
「真の指導者」
が見当たらない。いたとしても、認識できていない。
人は見たいものだけを見る。
見たくないものを見たときには
それを認識すること自体を拒絶する。
目を背けて見ないようにするのではなく、
目の前にありながらそれを知覚できない。
そのような状態を「愚か」といい、
そのような人を「愚者」という。
何事も認識、知覚することから出発し、
現実の出来事に真正面から立ち向かわなければ
成長できないからだ。
目を背けるのは「知恵」の範疇。
「正しい」見て見ぬふりは
メンタルヘルス的に考えれば合理的。
問題なのは、目の前の出来事を認識できず、
なすがままに流されていくことだ。
正しい信仰とは、
目の前の現実に
真正面から向き合う行為だ。
真正面から向き合う行為だ。
一般的な宗教に対する認識は
「神頼み」するものといった程度だろう。
神頼みで幸せになれるか。と思うから、
信仰者を馬鹿にする風潮になる。
それでいて、初詣に行けば賽銭を投げて神頼みして、
厄年には厄払いをし、結婚式では神前で幸せを願い、
葬式で成仏を願う。
信仰を否定しながらそのような行為を繰り返すのと、
一つの信仰に生きていくのとでは
どちらが信頼に足るだろうか?
「このタレント嫌いなんだよね」と言いながら
そのタレントが出演する番組を
すべて見ている人がいたら、
「いやいや、嫌いに見えないから」と
ツッコミを入れるだろう。矛盾といえる。
この矛盾を解消するとしたら、
「このタレントが嫌いであることを確認するために
番組を見る」という心理とするしかない。
これは信仰といえる。嫌いであるという事実と
真正面から向き合っているからだ。
このようなことを人生という観点から行えば
宗教になる。
最初に書いたように、俺は信仰者で、宗教を信じる。
一つのものを信じているが、
それだけを追求したらいいとは考えていない。
宗教を信じるうえで気を付けなくてはいけないことは、
絶対に妄信・盲信しないこと。
その宗教の指導者が正しいことを言っているか、
正しいことをしているか。
拠りどころとするものが
「人」なのか「神」なのか「法」なのかを
自らの目で確認し続けなくてはいけない。
宗教は科学だ。逆はない。つまり、
科学は宗教ではない。
宗教は現実と照らして実験・検証を重ね、
証明できてこそ本物となる。
非現実的なことを言い、
合理性に欠けることをするものは宗教ではない。
俺は多方面から学び、どの教えが最も
「集約的」な教えなのかを追究している。
どんな宗教であれ、世界規模で信仰されているものには
必ず信じるに足る教えがある。
その教えが網羅されていて、
なおかつ理に適っているものがあるならば、
それが「真理」というものだ。
俺は子供の頃から「自分信仰」をしていて、
試行錯誤する中である程度の真理を得ていた。
この自分信仰が否定されず、
むしろ拙い部分を補完して発展させた宗教を
見付けたことは幸いだろう。
もちろん、世界規模の宗教だ。
わけのわからない妄信小集団ではない。
自分の人生の羅針盤として、
皆が信仰を持ったほうがいい。
大きなものを信じ、その中で人として成長し、
社会に打って出ていく人が増えた分だけ
世界は幸せになっていくのだと思う。
信じる者は救われる
これも一つの真理だろう。
冬は必ず春となる
春がやってくる。
自分の人生に希望を持って、
明るく朗らかに過ごしていきたい。


