こんばんは。
せぎひろちか(瀬木寛親)です。
僕にとって唯一の「残された身内」であり、幼少期に共働きで忙しかった両親に代わって祖母や叔父と共に僕の面倒を見てくれた叔母が1月26日に亡くなって丁度4週間。昨日2月22日に95歳の誕生日を迎えるはずでした。
写真は1歳前後の僕と叔母(笑)
72歳で亡くなった僕の母の4歳違いの姉。81歳で亡くなった父からは義理の姉ですが、90歳で亡くなった祖母を超え一族の中でも一番長生きとなりました。
ずっと独身で、僕の母と共に広島市役所に勤めてました。
祖母とも最後まで同居し、看取ったのも叔母。いつもずっと一緒に居た母娘でした。
なのでその後の一人暮らし歴も30数年に及びます。
でも、僕の両親が健在の頃は週末に泊まりに来たり季節ごとの家族旅行には必ず同行。
僕が結婚してからは、それに妻が加わり5人グループに。
母が亡くなってからはその1年後に生まれた長女がそこに入れ替わりました。
そして10年前に父が亡くなってからは4人家族の様な存在に。
最後の旅行が18年夏の湯田温泉♨︎
その年末に脳梗塞を発症し緊急搬送。
危機的状況はすぐに脱したものの多少の麻痺も残った中、自宅への帰還目指して懸命のリハビリが続きます。
転院の期限が迫り様々な今後を模索する中、自宅近くにある小規模多機能やグループホーム、高齢者向けマンションを併設している複合施設たどり着きました。
5月から自宅復帰に向けて退院し、上記の小規模多機能施設へ。
自宅に帰れない日がある利用者に向けて宿泊部屋があるのですが、叔母の場合はまずは週一でも自宅に帰れることを目指して宿泊からスタートしました。
そこでも1ヶ月以上調整を続けましたが、医師やケアマネの意見も含めて従来の賃貸住宅での一人暮らしは安全面において不可との結論になり、、、
7月から同施設内に併設の高齢者向けマンションに転居となり取り急ぎの引越しをしました。
それから約35年分の思い出の詰まった住宅から廃棄物と保存物の仕分け、業者への依頼等々、、
感慨深い気持ちと共に少しづつ取組みましたが、全ての片付けが終わり返還が叶ったのはその年の秋、、
叔母は僕の母方の原川家の長女です。寿巳恵(すみえ)と言います。
長男は戦線での疾病により戦後数年で没。
次男は3度も中国戦線に出向きましたが抑留を経て復員しその後上京。調布市の市議会議員を4期勤めましたが03年に没。
復員後は教員を務め、独身だった為一時は僕と叔母と祖母と共に暮らしていた三男の叔父は僕が高二の時に癌により没。
長男の叔父と共に僕が出会ってないのは原爆で亡くなった末っ子の叔母。10歳でした。
様々な先祖からの諸々の書物や巻物や骨董などなど叔母の住居を整理する度に出てくる毎日でした。
改めてこの広島の叔母の所に全て集約されてる縁等を考えると、日々の作業にも何らかの意味あるものと思いが強くなった時期でした、、
叔母を語る時は祖母から伝わる原川家のルーツを振り返らなければなりません。
祖母原川千代の祖父、僕からは高祖父に当たるのが元就の代から毛利家に使える粟屋家です。
関ヶ原での西軍の敗戦により毛利家は減領され山口へ。
元就の時代から毛利家に付き従っていた粟屋家は共に山口に移動。
その後時は流れましたが一族は主に台所番として他藩からの要人等に対する接遇料理を受け持っていました。
なので特に僕が祖母から話を聞いていた祖母の祖父である粟屋貞一は幕末の藩主である毛利敬親、そしてその次代である毛利元徳とは特に近い間柄であった事。
若き日の萩での交流の中、山縣有朋や3歳年上の伊藤博文とも親密な間柄であった事は書物を含めての伝承の中無意識のうちに僕に継承され現在に至ります。
写真は粟屋貞一です
僕にとって高祖父の粟屋貞一は幕末は毛利敬親を支え、廃藩置県後は上京し内務省の官吏に。
しかし次代の毛利元徳が貧窮する元藩士を救済する為毛利家の一大事業として北海道の開拓を決意。
その責任者として粟屋貞一を抜擢しました。
書物によればその突然の命を東京で受けた高祖父は「存外の幸せ」と喜んだ事、記されてます。
以来、地図上の北海道の小樽の左あたりにある赤井川流域にある赤井川村・大江村等の3自治体の開祖となりました。
特にその中でも赤井川村の開拓前は一面のヒグマが闊歩する原生林だったそうです。
その後筆舌に尽くしがたい苦難を乗り越えながら、持ち前の独創性と清廉潔白な人柄ゆえの多くの地元民からの協力も経て、、様々な農業制度の創設(今日の農協制度の先駆的なものと言われています)も成し遂げ自治体の創成期に守りではなく常にチャレンジする精神で取り組んでいた事を様々な伝承で感じています。
今のニッカウヰスキー余市蒸溜所の敷地内に当時屋敷があり、そこには今でも神社と山口から植林した松が残ってます。
右が僕の曽祖母で粟屋貞一の長女粟屋イサ子、原川に嫁いで夫が病死した頃。
左が祖母で原川家の長女、原川千代です。撮影場所は余市の屋敷内。
粟屋貞一の考えで原川の夫の死後イサ子は別の家に嫁がせました。
そして当時10歳の祖母が原川の家督を継ぐことに、、
高祖父が「千代が男だったら粟屋の家督を継がせたい」と言っていた程の聡明な祖母でしたが今で言うと小学四年生。
その後は粟屋の屋敷で暮らし自身にとっての祖父を父のように慕って暮らしたようです。
その時代の生き証人として今思えば貴重な話を繰り返し幼少の僕に祖母は言い聞かせました。
屋敷に伊藤博文が来道時の為の専用の入口がある事、親族のある失態に怒った高祖父が刀を抜き切り捨てようとした間に祖母が割って入り高祖父をなだめている間に侍女が裏口から親族を逃がした事、等々、、、
未だに見たかの様なリアリティが僕にはあります(笑)
高祖父は30年の北海道開拓生活の後68歳で萩に帰郷しますが、翌年に朝鮮京城に移住し養鰻城を経営。朝鮮半島への開拓・移民の事業にも関わったものと思われますがその翌年志半ばにして永眠。
原川家の集合写真。右端が祖母、その左下が幼少期の叔母。
そして被爆前、16歳の叔母です。
19年の夏に高齢者用マンションに転居後、なんとかこれからの安心安全の住居に落ち着けたと思ってた叔母ですが、、
難聴の検査を続けていた7月、外耳道癌である事が判明。
総合病院に転院しての主治医は「歳も歳ですし、負担をかけずこのまま見守る道もありますが、、」との見解も示されましたが、、
入居施設スタッフの方々からの協力も得て、2ヶ月近く毎日の放射線治療を実施しました。
出来る限りの治療は出来たかな、と思いながらの経過観察。
小さくなった癌はその後、月1回の定期検診や半年に1回のCT検査でもそのままの状態を維持しての5年間です。
丁度1月に行った検診で主治医から「もうこの夏で5年間の区切りも来ますし後数回くらいでとりあえず毎月の検査は一区切りとしましょう、お疲れ様でした!」との言葉を頂いたのが最後となりました。
様々な思い出が未だ走馬灯のように駆け巡りますが、自分に連なる先祖のことを書き記しておくのも供養と思い、長々と書き連ねてみました。天国の叔母に届けば嬉しいです。