破壊力のある表情を見せる者が強いとは限らない。
殺気を感じさせない者が無類の強さを持つこともある。
オーバーアクションな人が冷静に状況を判断することなく大振りし、
静かに動きを見切った人の一ひねりで効果的に腕を固められてしまう、ということもありえる。
ふと2年半前の角川春樹氏関係の記事を見つけ、ふとそんなことを思い出した。
私の認識では、寺山修司や角川春樹、福島泰樹といった人たちは、情熱系の人たちだ。
以前、角川氏や寺山氏の俳句は度々読んだ。福島泰樹氏の短歌絶叫ライブにも行った。
よく言えば情熱的。
わるく言えば、こけおどし的な、劇場的な、舞台的な、作られた場で表現している。
それを「魂だ」「いのちだ」と熱く語るのもいい。
世の中には様々な表現があるから、そういうのもありえると思う。
「『魂の一行詩』とは、いのちや魂を詠(うた)う現代の叙情詩」なのだそうだ。
角川氏らしい。
だが、いのちや魂を詠う現代の叙情詩であれば、わざわざ17文字の制約の厳しいなかで表現する必要もないのではないだろうかと思う。
現在でも、俳句よりも短歌や散文のほうが、叙情詩に近い位置にあるだろう。
私は、叙情も叙景も、はっきり言えば魂もいのちも俳句には必要ないと考えている。
武術においても、精神力で鍛えた者よりも、梃子の原理やフェイントの原理を冷静に身につけた者のほうが攻撃力がある。
華道やフラワーアレンジメントにおいても、情熱や思い入れをこめて作品を作るよりも、冷静に色や形の調和、面と直線のバランスなどについて科学的に学んだ者のほうが、迫力のある作品をつくることができるだろう。
いくら情熱をこめても、いのちをかけても、大振りパンチに伸びのない回し蹴りでは、「どうすれば効果的に破壊できるか」「どうすれば効果的に制圧できるか」といった仕組みを学んだ人に、こてんぱんにやられてしまう。
まあ、言葉の闘いでは物理的に殴られたりしないから、いくらこてんぱんに論理で負けても、「まあええわ。今日はこのぐらいにしといたろ」と池乃めだかのように言って引き返すことができる。
俳句の世界で意識的な人は角川氏のように「ともかく今の俳句は作品の力が衰えた。魅力を失っている」「句を作るときの目線が読者でなく、俳壇の中に向かっている。志がなく、仲間内でほめあうだけ」と言う。
だけど、「現代俳人でいのちを詠っているのは石田波郷、森澄雄氏などごくわずか」と言う認識には異論のある人も多いだろう。
私はむしろ「俳句は構造を示せばいい、いのちを詠う必要はない」と感じる。
いのちを詠っても芸術として調和の取れた構造を示せない俳句は詩として価値がない。
瞬発的に最低限の構造を示すだけであれば、31文字の短歌や散文ではなく、17文字の俳句のほうが適している。
革新や前衛を熱く絶叫しても、歌謡曲やフォークソングのコード進行の影響から脱し切れていない頭脳警察(1970-1975年)は好きだったけど、いまいち納得がいかなかった。
そんなものだ。
汗を見せないシュガーベイブ(山下達郎、大貫妙子がいたバンド。1973-1976年)のほうが革新的なコード進行を聞かせていた。
たしかに角川春樹氏の俳句には濃厚な意識を感じる。力があると感じる。
だけど、その情緒・叙情を客観的に構造を分解し、数値化すれば、何が見えてくるだろう。
記事の中では次のような句が紹介されていた。
亀鳴くやのつぴきならぬ一行詩
にんげんの生くる限りは流さるる
まだ生きるつもりで起きる昼寝覚
一見、「のっぴきならない」とか「生くる限りは」とか「まだ生きるつもり」などという言葉が意欲的、情熱的に見えるけど、表現としては安直で弱くないだろうか。相手の動きの見えていない力んだストレートパンチを連想する。手に連動して足や体幹が動いていないように見える。
私は、現代の俳句の世界において、きちんと句が示す構造を意識し、芸術として、詩として、世界各国の定型詩に負けない表現を行っているのは、夏石番矢など、ごくわずかではないかと感じている。
角川さん、そんなことはないでしょうか。
夏石さんとのガチンコ対談を見てみたいなと思います。
話はかみ合わないかもしれないけど、角川さんの輪郭がはっきりと浮き出てくるかもしれません。
芸術家であれば、それを恐れる必要はないと思います。
http://www.yomiuri.co.jp/book/news/20051110bk0b.htm
■角川春樹さん提唱「魂の一行詩」
俳句に革新 いのち詠おう
俳人の角川春樹氏(63)が新たな文学運動として「魂の一行詩」を提唱しはじめた。あえて「俳句」の名称を捨てて、何を追求しようとしているのか。話を聞いた。(小屋敷晶子)
「俳句は本来、いのちも魂もつぎ込む価値がある器。そして、すぐれた俳句はすなわちすぐれた一行詩だと考えています」。「魂の一行詩」とは、いのちや魂を詠(うた)う現代の叙情詩であると定義する。
「ともかく今の俳句は作品の力が衰えた。魅力を失っている」。運動の原動力の一つは現在の俳壇への不満だ。「句を作るときの目線が読者でなく、俳壇の中に向かっている。志がなく、仲間内でほめあうだけ」「現代俳人でいのちを詠っているのは石田波郷、森澄雄氏などごくわずか」
批評にしても、芭蕉や正岡子規、山本健吉の言葉を引用するだけで、自分の言葉を持っていない、技術論ばかりが横行して、小さな“盆栽俳句”になってしまった、と指摘する。
新たな名称を提唱するのは、議論を呼び、俳壇外のより多くの人にアピールしたいからでもある。「『俳句』というと一般の人は『わびさび』などを思い浮かべて、ハードルが高いと感じてしまう。『魂の一行詩』なら若い世代を含めて入ってきやすいでしょう」
魂とはいったい何を指しているのだろうか。
「それがわからなかったら文学は語れない。日本では古来、山川草木に霊が宿るとしてきた。人間を含めてあらゆる自然の中にいのちと魂を見いだしてきた。日本文化の伝統を見直そうとしているんです」
〈亀鳴くやのつぴきならぬ一行詩〉。今夏刊行した最新句集『JAPAN』(文学の森)の中の一句。すでに「一行詩」を主張しているが、詩といっても五七五の定型に変わりはない。「五七五で十分に、小説や映画に劣らない大きな世界が詠める」
「人間の生き方、生きざまを描くことが大切。当然、恋や笑い、風刺など、これまでの俳句が切り捨ててしまったものも取り入れてゆく」。季語は重要だが、絶対的なものではないという。〈にんげんの生くる限りは流さるる〉。無季の自作もある。
主宰する結社「河」を運動の拠点と位置づける。父・源義から、昨年亡くなった母の照子氏を経て受け継いだ。月刊の結社誌「河」の11月号からは、表紙に「俳句」ではなく「魂の一行詩」と刷り込んだ。
会員の作品を講評する「河作品抄批評」は「魂の一行詩」運動を説明し、実例を示す場として、当面もっとも力を注ぐ。この号では〈生きることすなはち詩(うた)や天高し 福原悠貴〉〈まだ生きるつもりで起きる昼寝覚 片山白城〉などをすぐれた一行詩、「いのちの賛歌」だと高く評価した。
角川春樹事務所の月刊誌「ランティエ。」とタイアップし、今月からインターネットでの作品募集を開始する。また、来年からは、月1回、音楽を取り入れたライブ活動を自ら行い、「魂の一行詩」を広めようと計画している。
「全身全霊を傾けて、後世に貢献したい。正岡子規以来の俳句革新運動ですよ」と気宇壮大だ。
(2005年11月10日 読売新聞)