プレミアム本、たとえば「巷の神々」 | ambiguouswordsのブログ

ambiguouswordsのブログ

ブログの説明を入力します。

古本の世界には、刊行当時よりも流通価格が高くなって高値で取引されているプレミアム本があります。
たとえば、ちくま文庫から1990年に出た「観光―日本霊地巡礼」は中沢新一と細野晴臣の対談集。定価は1,155円ですが絶版になってから1冊4~5千円の値をつけることもありました。
今は2~3千円で手に入るようです。

2000年に出た竹中労の「黒旗水滸伝」も上下巻各2,625円の定価だったのに、今では古本が1冊1万5~6千円もします。
むかし発売された頃気になっていましたが、定価が高くて手が出せませんでした。
とても読みたいのですが、今ではさらに手に入りにくいものとなってしまいました。

1967年に出た石原慎太郎の「巷の神々」も復刊されないので高値がついている1冊です。
定価は490円ですが、古本屋で買おうとすると少なくとも8千円や9千円はするのではないでしょうか。

ところがなんと、上記の3冊がすべて目黒図書館には揃っているのです!
検索していて今気づきました。これはすごい。
黒旗水滸伝を予約しなくては。
・目黒図書館
http://www.meguro-library.jp/


目黒図書館はなかなか棚のセンスがいいですね。
私が時々行くのは中目黒駅前の分室、というか図書館です。


それはともかく、今回はちょっと「巷の神々」について書いてみましょう。
なぜ復刊されないのか、という1点に絞って。

なぜ復刊されないか・・・、それは、現代では差別語として放送禁止、出版禁止になっている語が頻出しているから。
それが決定的な要因だと思われます。

この本の中に取り上げられている各種の新宗教についての記述についても各宗教団体からクレームがあるのかもしれませんが、まあ裁判に訴えられるほどのものでもないように感じます。

1970年代半ば以降、いくつかの語が差別的な言葉として認識されるようになり、排斥されるようになりました。
ただ、それまでは問題視されていなかった言葉なので、1970年代前半以前の本には、現代の価値観で見ると差別的だという語が出てくることがめずらしくないのです。

「巷の神々」をちらっと見ると下記のような記述があります。
p100
上半身裸の、巨(おお)きな乳房をむき出しの、少しからだはたるんでいるが、他と比べればまだ色気の残っているような、むしろ眺めて、全く未開の土人と言った様子はない。
(略)
私は土人にしては妙になまめかしいその魔術師の裸写真を妙に印象深く覚えている。
(略)
 彼女の、眼に見えぬ力もさることながら、こうした未開の土人と言うのは、単純故に、深く、強く、暗示にかかり易い。

p106
 キリストが嘗つて、いざりを歩ませ、盲(めし)いの眼を見開かせ、水を葡萄酒に変え、死んだラザロを復活せしめたと言うのは、すべて事実である。

p111
 例えば、キリストは先天の不具、いざり、盲に手を触れただけで直した。

p231
 不治を宣された片輪が直った話、死を宣された癌が治った話、(略)どの教団の機関誌紙を捜しても必ずある。

p311
 放ってもおけず、他の幹部が再度、角太郎に相談すると、
「よし、ここへ連れて来い」
 と言いつけ、連れて来て並ばされたにわか盲の幹部たちに、
「これでお前たち、自分自身の根性がよくわかっただろう」


などなど、放送禁止用語が並んでいるわけです。
そういえば最近、新潮文庫の「しゃべれども しゃべれども」のp256に「つんぼ桟敷」という語を見つけました。
この言葉も、差別の仕組みや差別用語に詳しい人でないと、すぐに自主規制されてしまいます。
新潮社の編集者はえらい。すばらしい!
差別語ではないかと言われてもきちんと論理的に説明できる見識があるのでしょう。

多くの編集者や執筆者や新聞記者は、おそろしく差別問題について事なかれ主義です。あるいは無知です。
無知ゆえに、それは差別語だ!などと言われると何も言い返せないのです。
それで言論の自由が守れるのか、執筆者や表現者を守れるのか、編集者は執筆者を守る楯となるべきなのではないか、と思いますが、そういう気概のある編集者は少数です。

理屈を考えずに、善悪のマークを付けるのは、思考の停止。
物事の仕組みを見ていない。

もし、石原慎太郎の「巷の神々」をどこかの出版社がそのまま復刊したとします。
そうすると、確実に各所から非難されるでしょう。
この差別語はなんだ、と。

だけど、文句を言ってくる人の多くは、差別とはどういう構造を持ったものなのだろうかと深く考えたこともない人がほとんどです。
「差別語は人が気分を害するもの、人の尊厳をおとしめるもの、だから差別語を使ってはいけない」
といったレベルの文句を言ってくる人に対しては、「なぜ気分を害するのか」「なぜ人の尊厳をおとしめることになるのか」などと聞いて、自ら頭を使って差別の発生理由を考えてもらえばいいかもしれません。
そのくらい考えないと、世の中の仕組みを認識してみようという意識はうまれないかも。


ちなみに、土人というのは原始的な生活をしている土着の人、というようなニュアンスで使われていた言葉です。
対等扱いをしていなかったのは確かですが、それイコール差別、というのは現代のひとつの価値観です。

放送禁止用語の「いざり」も、いざり歩きから来た言葉。「いざり」が差別用語なら、数十年後には「ガニ股」や「猫背」も差別語に認定されるかもしれませんね。

盲はそのまま「目暗」。
言葉自体にマイナスイメージというか否定的なイメージはありませんでした。

言葉や記号には罪がないのに、非論理的な人々が色眼鏡で見て、否定的なイメージが付いている言葉を差別語だと認定し、糾弾しているのです。
そういう人たちこそ、蔑視や否定といった理解を拒絶する心を克服し、論理的な思考をする必要があるのかもしれません。

まず、差別を糾弾する人たちは、まったく汚れのない中古便器に刺身を盛って食べることくらい平気になってほしい。
別にカレーでもとんかつでもいいですけど。
(私は、余裕でおいしくたべられる自信があります)

それが平気にできるようになってから、差別を糾弾してもらいたい。
それができないうちは、自分の心の中に差別心とでもいうべき、何かを見下し、蔑視する姿勢が強く残っていると思っていい。
それを解消しないで差別している人を批判しても、どっちもどっち。
(右翼も左翼もどっちもどっち、というのに似ているかも)


いくらきれいな便器でも、まったく菌がついていないことを証明された便器でも、手を触れたりなめたりすることができないような人たちが、人を差別することが多いと感じます。

被差別部落部落民が明治時代に平民になった時、彼らを受け入れなかったのも彼らのような人たちでした。

国旗や国歌は戦争のイメージが付いている、と言って糾弾するのも似たようなものかもしれません。
本居宣長の国粋主義の影響を受け、大正時代に陸軍の関連団体が全国各地の学校などに植えた桜の木のことは糾弾しないのに、旗や歌は拒絶する。
軍国主義に大いに利用された桜の木のことも拒絶するなら、筋の通った人だと思いますけどね。
桜は別に自分たちで独自の解釈をしているからいいんだ、と言うのであれば旗も歌も独自解釈すればいい。


まあ、差別論についてはまた別の機会にある程度まとめられればいいと思います。
私は時代による価値観の変遷や、価値観と価値観がぶつかった時のことに関心があるので、価値観とはかんだろう、という視点からの差別論になるかと思います。

日本の差別論はマルクス主義的な歴史学や哲学の影響を大きく受け、あんまり現代科学っぽくないものになってしまっています。
科学だったら、何々しなくてはいけない、っていう方向性など存在しないのに。
「世界には良い物質と悪い物質があり、ハイレベルの良い物質を世の中に広めるのが物理学の使命だ」などと言う物理学者はいない。。。

基本的に、私は差別を無くそうと思っていません。
第一、差別を無くそうとすることが、ひとつの差別だと思っています。

誰も糾弾するつもりはないし、否定するつもりもありません。
文章が至らず、否定されたように感じて不快になる方がいらっしゃったら謝ります。

とりあえず今からちょっと飲みに行くのでいちど切り上げます。
ほんとうにまとまりなくてすみません~!