>ですから、自分は立っていると思っている人には、道を踏み外さないよう警告しなさい。(Ⅰコリント10:12私訳)
➡出エジプトのイスラエルの民たちが一連の奇跡を経験したにもかかわらず失敗した事例を思い起こさせた上で、十字架の救いを経験した信者たちにも失敗の危険があることを警告した。

>そういうわけで私の愛する者たちよ、偶像礼拝を避けなさい。(10:14私訳)
➡試練と偶像礼拝が結び付けられている。
 エジプトを脱出したイスラエルの民たちの失敗例の中で、偶像礼拝としては金の子牛事件が挙げられている。
 第一の月の15日にエジプトを出て、第3の月の一日にシナイの荒野到着、その後シナイ山での律法授与までおよそ50日、その後モーセ不在の期間が40日。
 イスラエルの民にとって、モーセに導かれた期間に匹敵するモーセ不在期間を経験していたのだ。単にモーセではなく、モーセを仲介者とした神が彼らにとって不在となってしまったのだ。
 神の臨在は山の上の黒雲と雷鳴で顕されていたのだが、民たちはそれを受け入れることができず、<まことの神に代わるもの>=偶像を求めてしまったのだ。
 このことが教訓とされるべきことである。

>神はあなたがたを耐えられる以上の試練の中に捨て置くことはなさいません。(10:13b私訳)
➡試練とは試みであり誘惑を伴う。
 私たちは日々解決すべき課題と直面していて、多くの場合、自分の能力で解決できているように思わされている。時々は思い出して神に感謝するが。
 しかし一人では解決できない場面もあるはずだ。現代社会に生きる私たちが「偶像の神頼み」をすることはないだろうが、

 

      まことの神の導きを待てなくて世的な作法で処理してしまう

 

というのも、危険なことである。
 そのような成功体験を重ねた先には、

 

        頼るべきものがすり替わった人生、偶像礼拝の人生

 

があるという危険である。

>むしろ、試練とともに、あなたがたが耐えられるような脱出口も備えていてくださいます。(10:13c私訳)
➡耐えられる以上の試練の中から耐えられるような試練に逃れる脱出口であって、解決ではない。
 しかし試練に耐える中で神はその人を整えてくださる。