>人が、まだ婚約していない処女を誘惑し、彼女と寝た場合、その人は必ず、彼女の花嫁料を払って彼女を自分の妻としなければならない。

もしその父が彼女をその人に与えることを固く拒むなら、その人は処女の花嫁料に相当する銀を支払わなければならない。

                      出エジプト記 22章 16〜17節

                      聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

→家の娘に関するトラブルもコミュニティーの中でのことすれば、隣人関係の教えと言えよう。

前提として以下が想定されよう。

(1)家の娘は成長して花嫁となる。

(2)妻を迎える者は花嫁を出す家に<処女の花嫁料>を対価として支払う

(3)婚姻は家同士で行うもので、婚約の後に結婚に至る。

(4)<誘惑し、彼女と寝た>とは、両者の間では合意の上で、正規の手順を経ることなく夫婦の営みを行ったということを表している。

 

16節では、家同士で婚姻の契約がなければ、

 

      当人同士の合意と既成事実によって

      当人たちの意思が成就される

 

ことが定められている。

また、その「合意」が

         <誘惑>によるその場限りのもの

であったとしても

        「既成事実」は消し去ることはできない

ので、

         両者にその責任を負わせる

ことを定め、

           安易な行動を抑制

している。

両者が負う責任とは、生涯添い遂げるという責任である。

 

17節からは、家の娘の婚姻に関する決定権は「既成事実」の有無にかかわらず父にあることがわかる。

娘の相手がふさわしくないと判断した場合、父にとってはこの男は

 

         「娘の婚姻に関する決定権」を侵害した者

であり、

          娘の<処女の花嫁料>という価値を損なった者

ということになる。

神は<処女の花嫁料>という価値を大切なものとして示された。

 

「リベラル」社会での価値観は、

・結婚をするかしないかは個人の自由で、そのことを良否判定の対象としてはいけない。

・女性が処女であるかそうで無いかを良否判定の対象としてはいけない。

・婚姻は両性の合意のみによって成立し、出身家庭が阻止することはできない。

というものなので、ここ16、17節とは真っ向から対立する。

ユーロクリスチャニズムとしては触れたくない個所と言えよう。

イエスの十字架によって廃棄された個所だなどと言われるかもしれない。

 

>「それゆえ、男は父と母を離れ、その妻と結ばれ、ふたりは一体となるのである。」

この奥義は偉大です。私は、キリストと教会を指して言っているのです。

                      エペソ人への手紙 5章 31〜32節

                      聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会

 

→リベラル神学とトラーとで、どちらがキリストに娶られる教会の姿として喜ばれるだろうか?