>しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、私が今日あなたに命じる、主のすべての命令と掟を守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたをとらえる。
申命記 28章 15節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
→<すべての命令と掟を守り行わないなら>という条件は「一つでも守り行わないなら」と同じで非常に厳しい。
その厳しさは
「律法の民」にとっての厳しさ
であって、
現代社会に生きる異邦人にとってではない。
「律法の民」とは
神の命令を守ろうとする者たち。
しかし項目が多いと見落とすものもありうる。
無神論の世界に生きる今日の異法人は、規則であっても
少しくらいの違反なら大目に見るべきだと考える。
そういう視点での厳しさでは無いということ。
「律法の民の見落とし」という観点から、
初めから実現不可能なものだったのではないか
という考えで、
「全ての人は罪人だ」
という理解になりがちだ。
>その人は羊の群れから、傷のない、代償として評価された雄羊一匹を、主への自分のための代償のささげ物として、祭司のところに連れて行く。
祭司は主の前でその人のために宥めを行う。彼は、自分が行って責めを覚えるようになったどのことについても赦される。
レビ記 6章 6〜7節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
→あとで気づいた「見落とし」に対してトラーには、明確に救済措置が示されているのだ。
だから、
「律法が厳格で守れないからのろいを受けてしまうのだ」というのは誤りである。
では罪のためのささげ物をささげていればのろいは回避されたのかというと、そんなことはない。
>では、どうなのでしょう。私たちにすぐれているところはあるのでしょうか。全くありません。私たちがすでに指摘したように、ユダヤ人もギリシア人も、すべての人が罪の下にあるからです。
次のように書いてあるとおりです。「義人はいない。一人もいない。
悟る者はいない。神を求める者はいない。
ローマ人への手紙 3章 9〜11節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
→イエシュアの十字架がなければ罪の赦し、救いはないというときによく根拠とされる個所だ。
原意は、異邦人のみならず罪のためのささげ物をしたユダヤ人さえも<義>と認められないと。
そしてその
「のろい」の原因は<神を求める者はいない>からだ
と明かされている。
>彼らはことごとく背き去りだれもかれも無用の者となった。善を行う者はいない。だれ一人いない。
詩篇 53篇 3節
聖書 新改訳2017©2017新日本聖書刊行会
→形式的に律法を守り行っていたとしても、神の目には<背き>が明らかだと。
「信仰義認」とは、
「律法ではなくて信仰」
というよりは、
「信仰が無いのに律法を守っていると言って義を求めても認められない」
ということだろう。
神に従くのか背くのか、
それは
神の側に身を置くのかサタンの側なのかのどちらか
であって
中間とかは無いという厳格なものだ
という理解が必要だ。
申命記 28章がのろいについて当てられているのは、サタンに捕えられてしまったらどんな悲惨なことになるか示し、背教への警告としているのだ。
契約違反のペナルティーとして「のろい」なのではなく、サタンの側にいると良いことがないと具体的な例を挙げて教えてくれているととらえたい。
悪い政府の下で国民が疲弊していくのと似ているかもしれない。