(青色は試訳)
 8 そのようにきっかけを得た罪、すなわち戒めを通してあらわになった罪は、すべてのむさぼりを私のうちに顕在化しました。その律法がなければそのような罪は顕にならず死んだも同然です。
 9 律法がない時期は自我が生きていたが、戒めが来たとき罪はあらわによみがえり、
10 自我が死にました。私はわかりました。本来いのちに導く戒めが死に導いていると。
11 きっかけを得た罪、すなわち戒めを通してあらわになった罪が、私に律法を誤らせ私を殺したのです。
12 ですから、律法は聖なるものであり、正しく、また良いものです。
13 それでは私にとって良いものが死を生み出したのか? そうではない。罪が、私にとっての良いものを通して顕在化した罪が、死というものを引き起こしたのだ。度を越えた罪深さの故に、戒めを通して生み出された罪が。
14 私たちは気付くのだ。律法は霊的なのだが私は肉的なのだと。売り渡されて罪の下にいるのだ。
 

**以下訂正2024.1.6**
まず8節で述べていることは、パリサイ家庭に生まれ育ったパウロが、物心をつくころにはトラーの教育を受け、自分の思いの中には罪に相当するものが多々あることを知ったということだろう。

<律法がなければ、罪は死んだものです。>とは、上記を逆に言っただけで、「律法がなければ、それが罪だと自覚することはない」と解せばよい。

「戒めが来たとき、罪は生き、私は死にました。」(9,10)というのは単に8節の言い換えである。

パウロが<律法なしに生きてきた>のは物心をつく前の幼少期である。<戒めが来た>のはトラー教育によってであり、自身の内の罪を知ることとなった。死に値するほどのものであると。

**以上2024.1.6訂正箇所**

 

egowが生きている、死んでいるというのは抽象論として、

 

      主体的に積極的に行動する状態と、罪責感に葛藤しながら行動する状態

 

と解したい。
律法によって罪責感に葛藤したり表面的な行いで取り繕おうとするのは

 

     神が律法を与えられた本来の意図とは異なると気付いた

 

というのが10節の後半である。自我は、

 

       自身の罪の問題に集中するよう欺かれ、

       救いに目が向かななかった

 

ということ。(11)
そして律法を正しく理解できるようになり、12節の宣言となる。
8節から11節では律法による自我の死について語ってきたが、13節では

 

     律法の性質として死に導くのではない

 

ことを忠告している。

 

    律法は罪を顕在化し、死の理由付けをした

 

とも言えよう。医者が人をガンにするのではなく、人にガンを発見し病状を伝えるように。

そして14節で再び、律法は霊的・自我は肉的と言い重ねる。