"こういうわけで、神が結び合わせたものを、人が引き離してはなりません。」"(マルコ10:9)
➡パリサイ人たちの質問
<夫が妻を離縁することは律法にかなっているかどうか>
に対し、正対した回答とはなっていない。
パリサイ人たち自身が律法の矛盾に解決を見出していない事柄
に対し、
イエスの見解を聞き出そうとした
のだが、
イエスはその同じ土俵に立っていない
からだ。
パリサイ人たちの言い分は以下のようなものである。
① 申命記24章では離縁状によって新たな婚姻が可能となることを前提としているので、「モーセは、離縁状を書いて妻を離縁することを許しました。」(4)
② レビ記21章では<離縁された女>を妻とすることに対し否定的で、新たな婚姻が不可能ある。
ここ9節の応答では、
<神が結び合わせたものを>という前提条件
が重要である。この前提条件はパリサイ人たちが関心を向けていなかったものである。彼らの伝統は一夫多妻制といえるから。
イエスの立つ土俵は、
神にあっての結婚、キリストと教会を表す結婚
ということである。
「二人は一体となる」、それを人が引き離してはいけない
と言っている。
レビ記21章7節では<離縁された女>について触れられているので、
この時代にすでに<夫が妻を離縁する>ことが行われていた
ことがわかる。
申命記24章は、律法以前からある離縁という事柄について「離縁状を書き渡す」ことで
<離縁された女>の再婚を法的に認定し、生存維持を下支えする
ものといえよう。
「離縁する」という頑なさに対し、弱者救済のための律法が付け加えられた。
「モーセは、あなたがたの心が頑ななので、この戒めをあなたがたに書いたのです。しかし、創造のはじめから、神は彼らを男と女に造られました。」(マルコ10:5,6)
結論
イエスは離縁に関する律法を否定していない。しかし離縁は神の御心ではないことを宣言した。