>なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。(汽撻謄4:17)
神の家とは、文脈からこの書簡の宛先である人々のこととわかります。
私たちにとっては教会ということになります。
「始まる時が来ている」・・・この書簡の同時代においては
「さばき」の最中ではなく、
ちょうど始まったところでもなく、
開始時刻が<来ている> = <近づいている>
という表現です。
「あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練」(4:12)や、
「キリストの名のために非難を受ける」(同14節)ことや、
「キリスト者として苦しみを受ける」(同16節)こと、
「神のみこころに従ってなお苦しみに会っている」(同19節)こと
は、さばきではないということです。
>主は、彼にこう仰せられた。
「町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行われているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。」
また、私が聞いていると、ほかの者たちに、こう仰せられた。
「彼らのあとについて町の中を行き巡って、打ち殺せ。
惜しんではならない、あわれんではならない。
年寄りも、若い男も、若い女も、子どもも、女たちも殺して滅ぼせ。
しかし、あのしるしのついた者にはだれも近づいてはならない。
まずわたしの聖所から始めよ。」(エゼキエル 9:4-6)
神の家においてさばきに先立ち
額にしるしをつけられる時期がある
と告げられています。
しるしをつけられるのは「忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々」に限られます。
その基準に合うか合わないか調べられるそのような時期としてこの困難の時期をとらえることができるのではないでしょうか。
教会に所属する全員が「救われる」(汽撻謄 4:18)のではなく、
試され、「義人」と確認された<残りの者>だけが教会のさばきにおいて免れる
ことを「かろうじて救われる」(同18節)と言っていると思います。
>さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなるのでしょう。
義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。(同17,18節)
さばきは教会からはじまり神の福音に従わない人たちで終わるのはなぜか?
この順番が逆であったら、世の人々はすべてさばきに会い、教会にいる人々は慢心してしまい、教会のさばきの時に免れる人も少なくなってしまうのではないでしょうか?
最初に教会がさばきに会うことで、
それを見る世の人々に、さばきに会う人と免れる人がいることを見させ、
「神を敬わない者や罪人たち」が悔い改める機会とする
配慮を覚えます。
>あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。(同 5:2)
神の羊の群れに属さない人たちが「あなたがた」の中、神の家に紛れ込んでいるということです。
神の家をさばくことで神の家自体も純化、聖化されることでしょう。
>キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。(同1節)
>こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。(同2節)
自分の身におこる苦しみを通してキリストが受けられた苦しみを覚えるとともに、自分の身から人間の欲望をそぎ落としていく時とすることで、聖化が進むものと覚えます。
神の家とは、文脈からこの書簡の宛先である人々のこととわかります。
私たちにとっては教会ということになります。
「始まる時が来ている」・・・この書簡の同時代においては
「さばき」の最中ではなく、
ちょうど始まったところでもなく、
開始時刻が<来ている> = <近づいている>
という表現です。
「あなたがたを試みるためにあなたがたの間に燃えさかる火の試練」(4:12)や、
「キリストの名のために非難を受ける」(同14節)ことや、
「キリスト者として苦しみを受ける」(同16節)こと、
「神のみこころに従ってなお苦しみに会っている」(同19節)こと
は、さばきではないということです。
>主は、彼にこう仰せられた。
「町の中、エルサレムの中を行き巡り、この町で行われているすべての忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々の額にしるしをつけよ。」
また、私が聞いていると、ほかの者たちに、こう仰せられた。
「彼らのあとについて町の中を行き巡って、打ち殺せ。
惜しんではならない、あわれんではならない。
年寄りも、若い男も、若い女も、子どもも、女たちも殺して滅ぼせ。
しかし、あのしるしのついた者にはだれも近づいてはならない。
まずわたしの聖所から始めよ。」(エゼキエル 9:4-6)
神の家においてさばきに先立ち
額にしるしをつけられる時期がある
と告げられています。
しるしをつけられるのは「忌みきらうべきことのために嘆き、悲しんでいる人々」に限られます。
その基準に合うか合わないか調べられるそのような時期としてこの困難の時期をとらえることができるのではないでしょうか。
教会に所属する全員が「救われる」(汽撻謄 4:18)のではなく、
試され、「義人」と確認された<残りの者>だけが教会のさばきにおいて免れる
ことを「かろうじて救われる」(同18節)と言っていると思います。
>さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなるのでしょう。
義人がかろうじて救われるのだとしたら、神を敬わない者や罪人たちは、いったいどうなるのでしょう。(同17,18節)
さばきは教会からはじまり神の福音に従わない人たちで終わるのはなぜか?
この順番が逆であったら、世の人々はすべてさばきに会い、教会にいる人々は慢心してしまい、教会のさばきの時に免れる人も少なくなってしまうのではないでしょうか?
最初に教会がさばきに会うことで、
それを見る世の人々に、さばきに会う人と免れる人がいることを見させ、
「神を敬わない者や罪人たち」が悔い改める機会とする
配慮を覚えます。
>あなたがたのうちにいる、神の羊の群れを、牧しなさい。(同 5:2)
神の羊の群れに属さない人たちが「あなたがた」の中、神の家に紛れ込んでいるということです。
神の家をさばくことで神の家自体も純化、聖化されることでしょう。
>キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。(同1節)
>こうしてあなたがたは、地上の残された時を、もはや人間の欲望のためではなく、神のみこころのために過ごすようになるのです。(同2節)
自分の身におこる苦しみを通してキリストが受けられた苦しみを覚えるとともに、自分の身から人間の欲望をそぎ落としていく時とすることで、聖化が進むものと覚えます。