「私も、すべてのことを初めから綿密に調べておりますから、あなたのために、順序を立てて書いて差し上げるのがよいと思います。」(ルカ1章3節)

ルカが「すべてのことを初めから綿密に」調べなかったら、私たちはクリスマスを祝えただろうかと思います。
マタイの福音書にもイエス様の誕生の記事はありますが、ベツレヘムで生まれたことは書かれていますが、馬小屋も羊飼いも登場しません。
マルコの福音書とヨハネの福音書にいたっては省略されているかのようです。

4つの福音書はそれぞれ役割があって、必ず同じ事が書かれていなくてはいけないということではありませんが、十字架での死と復活は4福音書とも記録しています。
当たり前じゃないか!と言われそうですが、その通りです。十字架の死と復活無くして福音は有り得ないし、福音書としての意味が無いということです。

それとの比較で誕生の記録の重要性を考えています。
もちろん、イエス様の受肉なくしては十字架も復活も起こり得ないのですが、しかし現実問題として4福音書はイエス様の誕生の記録があるものと無いものとは半々なのです。誕生の記録が無くても福音書としては成立するということです。

マタイの福音書とルカの福音書でのイエス様誕生の記録の書き方の特徴を考えると、

マタイの福音書では、預言の成就に焦点が絞られていると思います。
「このすべての出来事は、主が預言者を通して言われた事が成就するためであった。」(マタイ1章22節)
『ユダの地、ベツレヘム。あなたはユダを治める者たちの中で、決して1番小さくはない。わたしの民イスラエルを治める支配者が、あなたから出るのだから。』(同2章6節)
「これは、主が預言者を通して、「わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した。」と言われた事が成就するためであった。」(同15節)
以下17節、23節に預言の成就のことが書かれています。

ルカの福音書は、「尊敬するテオピロ殿」とギリシャ語の人名(?)をあて先として明記しているのが特徴です。
テオピロの意味が「神の友」ということから、個人名であれば「神を敬う」ヘレニストの家系の人かもしれないし、集団名であれば、異邦人クリスチャンのビギナー達かもしれません。
ユダヤ人クリスチャン達が伝承として持っていて書面に残す必要の無かった、「イエス様って生まれてどうやって育ったの?」というレベルから公式記録として書き始めることが必要だったのかもしれません。

そういう意味では、今や異邦人クリスチャンが圧倒的多数なので、イエス様をよく知るためにルカによる記録は不可欠な重要さがあります。

しかし、誕生を覚えるとはいっても、生年月日は知らされていません。(クリスマスを祝うことで、人々にイエス様が12月25日にお生まれになったかのような誤解を与えているともいえるのではないでしょうか?)
十字架の死と復活が、過越しの祭りの最終日、安息日の備えの日と、安息日明け、週の初めの日と明記されているのと対照的です。

神のことばは何を重要とされているのか? まだまだ思い巡らす必要がありそうです。