オヤジギャグ的探究――Oyajigagische Untersuchungen

オヤジギャグ的探究――Oyajigagische Untersuchungen

ただひたすら学問的な考察を行います。ときどき絞殺も行います。

Amebaでブログを始めよう!

よく知られているように,ガンジーのインド独立運動の方針は「非暴力・不服従」であった。ガンジーを心から尊敬しているおいらのブログの運営方針は「非更新・無反省」である。

このようにガンジーの正当な後継ブログを自負するおいらのブログであるが,せっかくだから非更新哲学の意義をここに開陳しておこう。

 

1,時間の有限性

時間は無限ではない。我々は,たかだか数十年の有限の時を生きるにすぎない。したがって,我々は有限の時間を人生において最も崇高な使命,たとえばアイドルグループのおっかけなどに費やさなければならない。

ブログなどといった下々の営みにやたら時間を使うわけにはいかないのである。ましてや,ハイデガーを読んだりして時間を無駄にしてはいけない。

 

2,ゼノンからの示唆

古代の哲学者であるエレアのゼノンは,アキレスは亀に追いつけない,ブログは更新されない,飛ぶ矢は飛ばない,ブログは更新されない,などという数々のパラドクスを提示したことで有名である。ゼノンの言い分によれば,ブログは更新されても更新されないものなのである。

 

3,ジンテーゼとしてのブログ非更新

ヘーゲル的に言えば,「ブログ更新しよう」(テーゼ),「めんどくさい」(アンチテーゼ)はアウフヘーベンされて「今日は寝よう」(ジンテーゼ)となる。

このようにして,ヘーゲル的にブログは更新されないのである。

 

4,ニーチェの実践としての非更新

「ブログは死んだ」とはニーチェの有名な言葉である。この意味は,「ブログなんてやってる場合じゃない,おいしいものを食べて,音楽でも聴いて寝ろ!」という意味である。

「人間とは動物と怠け者の間に張られた一本のロープである」とはあまりにも有名なニーチェの言葉である。永劫非更新という言葉もしっくりくるだろう。

 

このように,おいらのブログは非更新を旨としているのである。

 

*でもこれからときどき更新するよ(はあと)

 

 

 

 

恋愛の心理学において「吊り橋理論」というものがあるという。 
吊り橋を渡っているときのドキドキを恋愛のドキドキと勘違いしてしまうというのである。男女が一緒に吊り橋を渡ると恋に落ちやすいというのだ。 

しかし,おいらはこの理論は不当であると考えている。 


まず,高所恐怖症のおいらにとって,吊り橋というもの自体が悪趣味である。吊り橋を作った人間を地獄の業火に叩き込みたいくらいに悪趣味である。世界中の吊り橋を破壊して回りたい。できたらゴジラあたりに吊り橋を壊してもらいたい。ついでに観覧車も壊してほしい。スカイツリーなら倒してしまえホトトギス。それくらい吊り橋が嫌いである。 



あんなに高くて揺れる橋をつくるとは何事だろうか。そもそもおいらは吊り橋を見るのも怖い。はっきりいって,今「吊り橋」とパソコンのキーボードで打っていること自体が恐ろしい。机の引き出しがタイムマシンになっていてそこからネコ型ロボットが出てくるのと同じくらい恐ろしい。そういえばタケコプターなんて地獄の拷問である。 CIAが「よし,自白しないならタケコプターでしずちゃん家に行くぞ」といったら,おいらはすぐに自白するだろう。


しかし,もし仮においらが吊り橋をどうしても渡らなければならなくなったとしよう。それならば,おいらは絶対に「1人で」渡ることを希望する。 
自分の他に渡っている人がいる吊り橋など最悪である。揺れる。それも不規則に揺れる。一緒に渡っている人が動けば,橋もそれにあわせて揺れる。これは緊急事態である。 

おいらはおそらく一緒に渡っている人に殺意を抱くであろう。まるではぐれメタルに遭遇した勇者のように殺意を抱くであろう。 

たぶん殺意を抑えられなくなり,一緒に渡っている人を谷底に突き落とすだろう。 


つまり,おいらは人と一緒に吊り橋を渡ると 


恋に落ちるのではなく,故意に落とすのだ。

ある地方では何年も雨が降っていなかった。 
そこはまるで砂漠のように乾燥しており,水は他の地方から買ってまかなっていた。 
だからこの地方には傘やレインコートなどの雨具は不要であり,どの店にも売っていなかった。誰も雨具など持っていないはずだった。それなのに…… 

その日は珍しく雨が降った。何年ぶりだろう。雨は土砂降りというほどではないが,地面を十分に潤すほどの本格的な雨だった。その雨の中。事件は起こった。 

殺されたのは花子。庭で,心臓を一突きされて死んでいた。死亡推定時刻からすると花子が刺されたのは雨が降っている最中だった。それに死体を動かした形跡もないから,花子は雨の屋外で殺害されたに違いない。 
皆の脳裏にある考えがよぎった。「犯人は濡れているはずだ」 

しかし,容疑者は誰も濡れてはいなかった。傘をさして,あるいはレインコートを着て犯行に及んだのだろうか。ただこの地方の人間にとって雨具は無用の長物のはず。もし犯人が雨具を持っていたのだとしたら,それは何故だろうか。いったい何のために。 
容疑者は以下の3名に絞られた。 

1,太郎 
太郎は最近スケボーにはまっていた。また,エグザイルの大ファン。 

2,二郎 
二郎はラーメンがだいすき。超大盛りのラーメンだ。 

3,八重樫 
最近,乳製品を良く飲んでいて腸内細菌の調子が良いようだ。また,夜な夜な部屋で東京音頭を歌っている。また,燕のぬいぐるみをいっぱい集めている。 



さあ,犯人は誰?

今日はおいらの誕生日である。

ジョン・ロールズの誕生日でもあるが,おいらの誕生日を知っていてロールズの誕生日を知らない人100人にアンケートをとったところ,ロールズの誕生日のことは知らず,おいらの誕生日のことを知っていた。これほどおいらの誕生日は有名なのである。

ところで,誕生日を記念するとは不思議な行為である。その不思議さを考えてみよう。 

1,地球はいつも通り公転・自転している 
 地球は公転し,かつ自転している。このペースは基本的に誰の誕生日であろうと変わることはない。誕生日だからといって1日が30時間になったり,冬が夏になったりすることはないのだ。つまり,誕生日といっても自然的にはなんの変哲もない日なのである。自然科学者(物理学者,生物学者,化学者,地質学者,天文学者など)は,世界のどこをどれだけ探しても誕生日を発見することはできない。客観的におめでたさは存在しない。

これから 「誕生日おめでとう」と言われたら「どこがおめでたいのか指をさしてくれ」と返すことにしよう。

2,日は人間によって恣意的に定められている 
 今日は2月21日だが,なぜ今日が2月21日かというと,それは人間が太陽暦を用いてそう決めたからだ。おいらが生まれた日が同じく2月21であるといわれるのも,そう人間が決めたからだ。当然,別の暦を使っている文化圏にあっては,今日はおいらの誕生日ではない可能性が高い。今日がおいらの誕生日なのは,今日がもともとおいらの誕生日だからではなくて,「あなたは太陽暦によれば2月21日と呼ばれる日を誕生日としなさい」と太陽暦を採用する人々によって決められたからである。自分で1年が1日で構成される暦をつくれば,毎日が誕生日である。エブリデーがバースデーも暦次第で可能なのである。そうすれば誕生日割引などで得をすることが出来る。これから,毎日が誕生日であることにしよう。「毎日かあさん」という毎日出産している人の話もあるくらいだから,毎日歳をとっても許されるだろう。

3,曜日などの数え方もあるはずだ 
 ご存じのとおり暦には日の他に月もあれば曜日もある。おいらに疑問に思われるのは,なぜ「誕生日」を祝うかだ。たとえばおいらは火曜日生まれであるが,「誕生曜日」として毎週火曜日を祝ったりはしない。おいらは「誕生月」として2月を祝ったりもしない。これはなぜなのだろうか。なぜ「誕生日」が祝いの対象となるのだろうか。これもおそらく恣意的なものだろう。 

4,誕生日と偉大さは関係ない 
 おいらは2月21日生まれである。2月21日生まれといえば,法学者のサヴィニーがいる。しかし,おいらはサヴィニーほど偉大ではない。マルクス・エンゲルスの『共産党宣言』が出されたのもこの日だ。しかし,おいらはそんなに世界に影響力がない。ホークスの和田毅投手とも同じ生まれだ。しかし,おいらは仲根かすみの旦那ではない。俳優の要潤や女優の香里奈とも同じ生まれだが,おいらの顔はとても見られたものではない。石原裕次郎のモノマネタレント・ゆうたろうと同じ日に生まれたかといってモノマネもうまくない。つまり,同じ日に生まれたからと言って共通点などないのだ。誕生日によって人を占うことはできない。偉大な人物がうまれ日だからといって,偉大な日であるとは限らないのである。 


 やはり,おいらが肩を並べることができる2月21日生まれの人といえば,ハーバード大学教授の政治哲学者ジョン・ロールズくらいだ。そういえば彼とは同業者だ。この程度で我慢しておこう。

ダイエットを試みたことがある者なら誰でも,現代日本の平均的食生活と生物として人間が必要としている栄養とのギャップを嘆いたことがあるだろう。 現代人は「栄養がええよー!」という状態なのである。 


現代日本には栄養が溢れすぎている。バイキング形式の店や油を親の仇のようにふんだんに使った揚げ物料理の店,脂肪分が多いファストフード店や炭水化物をとりすぎてしまう丼屋,甘いお菓子やケーキの店,いたるところに人間の摂取エネルギーを簡単にオーバーさせてしまう店がある。 
ケーキバイキングとなれば,それはもう恐ろしいものである。海の戦士バイキングよりも恐ろしいといえるだろう。「ケーキを食べすぎると,体重計の計器が壊れることになる」といえる(そして,体重計が買い換えられて景気が良くなる)。なお,他人の計器を故意に破壊すると刑期を得る契機になるので注意が必要である。 

ジュース類も最近はローカロリー,ノンカロリーを謳ったものが増えてきたとはいえ,一般的に砂糖まみれの高カロリーな飲み物である。だから摂取量もある程度に抑えておくべきだろう。「ジュースは十数本も飲んではいけない」である。十数名の学者が言っているらしい。知り合いのフランス人もモジモジしながら言っていた。"Je...ce..."と。 

軽く食べられるイメージのうどんや素麺なども実は高カロリーであり,一般のうどん屋でトッピングの乗っているうどんを1日3食食べれば,体の小さな人であれば,カロリーオーバーとなる。おいらのようにそれなりに体の大きい者でも,たとえば朝わかめうどん,昼えび天うどんとから揚げ,夜味噌煮込みうどんとカレーうどんとカツ丼とロールケーキを食べれば大いに太る計算である。 
これでは,体重計に乗った瞬間に驚いて飛び降りてしまう。「う! どん!」と。 

にもかかわらず,人間の体は,飢餓に備えて脂肪を蓄えよう蓄えようとし,ちょっと食事量を減らしただけで,太り易い体に自動的でなるようにできている。筋肉も減り,基礎代謝も減ってしまうのだ。基礎代謝が減りすぎて「仕事の途中で退社する」なんてことのないようにしてほしい。 


ところで,熊は秋から冬にかけて冬眠し,ホッキョクグマも出産のために雪でつくった巣穴に巣篭りする。その間,熊は何も食べない。それどころか数ヶ月の間,尿も便も排出せず,きわめて浅い眠りの状態で出産を行うのみである。春になって熊が巣穴から出てくると,その体重は2分の1になっていることすらあるという,究極のダイエットである。寝不足の熊の目にはクマができているに違いない。
それに,ホッキョクグマは,巣篭りが終わると,半分眠ったような状態で,アザラシを捕まえて食べるという。つまり,アザラシをウトウトしながら打とうとするのだ。繰り返すがオヤジギャグを言うつもりはまったくない。この日記ではまだ一度もオヤジギャグを言っていないのだ。 

熊は春から夏に太れるだけ太り,冬に激やせするというシステムを採用しているから,熊は断食ダイエットでも構わない。春から夏にかけて激太りしたいから,太り易い体質になっていいのである。熊は太ってもくまったことにはならないのだ。 

しかし,人間はそうはいかない。 
ここに現代人のジレンマがある。 
現代人は難しい。よく考えてみれば,日本の問題に悩まされている現大臣も現代人である。 


ダイエットはオヤジギャグを言うよりむずかしい。

今日,2月14日は聖バレンタイン日である。 

 バレンタインといえば,集合論の哲学者・秋元康先生の弟子にして高名な女性哲学者・国生さゆり先生の「バレンタイン・キッス」を想起する人も多いだろう。おいら自身は存在論の系譜につらなる「おニャン子クラブ学派」の中でも4番目の哲学者・新田恵利先生のファンだったのであるが,そのライバル国生さゆり先生の名著『バレンタイン・キッス』にも一目おいていた。 
 近年では後期秋元哲学の継承者「AKB学派」の渡辺麻友氏(その名の由来は麻雀友達であろうか?)らによって形成された「渡り廊下走り隊7(ただし制限時速の範囲内で)」という研究集団によってリメイク版が発表されている。版元はオックスフォード大学プレスだった記憶があるが,間違いかもしれない。 

しかし,この歌には大きな謎がかくされている。それはバレンタインとキッスの関係である。 

1,時間の謎
この歌のサビは「バレンタインデー・キッス」である。そのため,この歌をバレンタインの日の歌と思っている方も多いのではないだろうか。しかし,同書をなんども読み返してみるとわかるように,国生先生は「明日は特別スペシャルデー」と言っている。すなわち,2月13日の歌である。 

なお,「特別スペシャル」という概念も瞬時には理解が困難である。甲本ヒロトの「夢のドリーム」(「夢のロッケンロール・ドリーム」所収)と似た響きがある。おそらくハイデガーの「現存在(Dasein)」と関係がある概念だろう。

2,キッスの行方 
となると,キッスに問題が生じてくる。これが前日の歌であれば,「バレンタインの日にキッスをした」という存在論的なキッスではなくなるからだ。ここでのキッスは明らかに「明日キッスをしてしまおう」という目的的キッスである。すなわち,まだ存在していないが,明日には自らの手で存在させようとするキッスである。現段階においては,頭の中に主観的にのみ存在するキッスなのだ。現実に存在しうるか否かは,明日になってみないとわからない,不確定な状態にある。これを「目的的不確定キッス」と名付けよう(いわゆる西田学派によって提唱された「翌日接吻」とも同一概念である)。 

3,目的と因果介入
人間による目的実現のための行為は,因果への介入をともなう。たとえば,花瓶の花を(ブルーハーツのように)咲かせようという目的を持つ者は,放っておけば枯れてしまう花に水を差し,花が枯れるという自然的因果に目的的に介入するのである。もちろん,バレンタインデーにキッスをしようとする者は,周到な準備でもって,ライバルの排除や対象の呼び出し,人目からの防衛,身長差の補正などさまざまな目的的行為を行うであろう。 

この段階では,キッスはあくまでも志向対象であって,存在ではない。

4,バレンタイン・キッスの概念
 ところで,バレンタイン・キッスとは何か。根源まで遡って考察したい。

 バレンタインとは,キリスト教の聖人の名前である。つまりえらいおじさんである。ここでは,バレンタイン=えらいおじさんという構図を確認した。

 キッスは,日本では元来「口吸い」と言ったそうだ。ここでは,キッス=口吸いという構図を確認した。

 以上のことから,バレンタイン・キッスとは「えらいおっさんの口吸い」であることが明らかになった。

 

5,結論

 ここまでの論述から明らかなとおり,国生さゆり先生は,2月13日の段階で,翌日のえらいおっさんの口吸いを目的にし,意図をもって因果に介入していることが明らかになった。並々ならぬ異常さを感じずにはいられない。

 また同時に,おいらはおっさんだがえらくはないのでバレンタインとは無関係であることが明らかになった。せめてエロいおっさんならおいらに関係があったのに。

 

 

 

 

ヘーゲルは哲学の体系をつくりあげた。
それは,散発的な思索ではなく,彼の全思考がそれぞれにかみ合ってひとつの体系をなしているものであり,その強さには圧倒される。
そう,彼がつくった哲学は,堅牢な建築物なのである。
そこで,彼の哲学に以下の称号を贈りたい。
 
 
 

『ツァラトゥストラはこう言った"Also sprach Zarathustra"』は,刺激的な哲学書であるとともに,小説の装いに満ちている。隠者ツァラトゥストラ(名前の由来はゾロアスターである)が山の生活で得た知識を街の人々に教えに行き,そこでさまざまな出来事が起こるという小説タッチで描かれた書物であるからだ。 

この書物の主題は,これまで枝毛だのキューティクルだの些末なことにこだわっていた人々に対し「髪は芯だ」ということを伝えることにある。一説には「神は死んだ(Gott ist tot)」ということを伝えたかったとも言われているが,ここでは,おいらの解釈にのっとり「髪は芯だ」という方を採用したいと思う。 
以下に,ツァラトゥストラがどう言ったかを簡単に紹介したい。 

1,旅のはじまり 
ツァラトゥストラは,太陽に真理を重ね合わせる。太陽イコール真理,それは換言すれば天地真理である。太陽がどんなに輝いていても,それを見る者がいなければ太陽の輝きは虚しい。同じように,真理がどれだけ真理でもそれを知って実践する者がいなければ虚しい。そこで,ツァラトゥストラは山を下りて人々に真理を伝えることを決意する。
山を下りる途中,ツァラトゥストラは一人の賢者に出会う。この賢者はツァラトゥストラにこう言った。 
「ワシの髪の毛はさらさらキューティクル! 枝毛も一本もありはせぬ! これを讃えるのだ!」 
それを聞いたツァラトゥストラはこう嘆いたという。 
「この賢者はまだ知らないのだ。髪は芯だということを!!!」 

2,人々 
ツァラトゥストラは街で真理を語り始める。「♪あなたを待つのテニスコート♪」とツァラトゥストラは言う。しかし,人々は容易に信じようとはしない。人々は教え込まれた常識,奴隷根性にどっぷりとつかっているのである。あるいは,南沙織派なのである。 
たとえば,高価なトリートメントを使用していればそれでよい,育毛剤を信じていれば生えてくる,などである。自分の生命力で髪を生やそうという意志がないのである。 

3,髪 
髪は最初からそこにあるものではない。人間があって初めて存在するものなのだ。どのような髪にするかは人間の選択である。人間の頭の上にあるから見落とされがちであるが,髪は我々の主人ではない。我々が髪の主人なのである。髪を信じる時代は終わった。髪を他人任せにしておく時代は終わった。 
人間が生きる以上,髪も生きている人間に仕えるもの,生命に満ち溢れた人間そのものでなければならない。そう。 
「髪は芯だ!」 

4,言葉 
ツァラトゥストラは他にもこういう言葉を残している。 
「変わることのない髪形。そんなものは存在しないのだ!」 
「私は君たちに超人を教えよう! 超人とは頭皮の強い人間である!」 
「フサフサへの意志」 
「人間とは動物と超人の間に張り渡された一本の髪である」 

5,伝えたかったこと 
ツァラトゥストラは,こう言いたかったのである。 

年をとって薄くなってきた。白髪も出てきた。でも市販の薬剤に甘えるな。自分できちんと栄養と睡眠をとって生やそうとしなさい。 
それがあなたの髪の毛なのだから。自分で選択し,自分で導きなさい。 


髪は芯だ。 

 

 

 

 

三百六十五歩のマーチは,誰もが一度は聴いたことのある歌であろう。 
水前寺清子の軽快な歌いは,聴く者を元気づけてくれる。 

そこで,今回は,「しあわせ」について,三百六十五歩のマーチを手がかりに考えていきたい。 

1,「しあわせ」は無生物である 
我々人間は,「しあわせ」を直接見たことがない。「明太子って何?」と尋ねられて「ほら,これが明太子だよ。食べてごらん」と教えられた者はいても,「しあわせって何?」と尋ねられて「ほら,これだよ。ちょっと触ってごらん」と答えられた者はいないだろう。 
つまり,歌詞のとおり「しあわせは歩いてこない」のである。歩いてくることができるのは生物だけだから。 

2,焦ってはいけない 
「しあわせは歩いてこない だから歩いてゆくんだね」とあるように,「走って」いってはいけないし,「飛行機で」いってもいけないし,「楽天市場で」注文してもいけない。 
しあわせはこちらから歩いて迎えにいかなくてはならない。

3,運動不足が良い 
「一日一歩 三日で三歩」とあるように,歩きすぎは良くない。 
ウォーキングが趣味のおいらは,一日かなり歩いているが,これではしあわせには出会えないようだ。しかし,一日一歩しか歩いてはいけないというのは,なかなか難しいように思われる。 

4,怠け者である 
ただの運動不足なだけではない。休みをとらなければならないのである。 
それは以下のような計算によって導き出される。 
365というのは1年の日数であると思われる。それゆえ,まずうるう年の2月29日は歩かない日になる。 
これだけではない。「一日一歩 三日で三歩」の後に「三歩進んで二歩さがる」との歌詞が続く。ということは,3日で前に3歩と後ろに2歩の合計5歩費やすことになる。つまり,3日で5歩移動するのだ。となると,365歩は219日で達成する計算になる。実に1年のうち146日は休みなのだ。 
正確に表現すれば,1年のうち146日は1歩進み,73日は1歩進んで2歩さがり,146日は1歩も歩かないのである。 
なんとも不健康きわまりないといえよう。 

5,暴力的である 
歌詞は「人生はワンツーパンチ」と,とつぜんパンチを繰り出し始める。これにはおいらも驚いた。ムエタイなら,ワンツーパンチからの膝蹴りとか,ワンツーパンチからのローキックとかであろうから,これはムエタイではなくボクシングだろう。人生はボクシングだといきなり言い出すところが,暴力的である。 

6,苦労を見せつける 
普通,他人に苦労しているところはあまり見せないようにするものである。しかし,この歌詞によれば「汗かきベソかき歩こうよ」となっている。146日は1歩進み,73日は1歩進んで2歩さがり,146日は1歩も歩かないのに,汗をかいてベソをかくのである。どれだけの弱虫なのだろうか。どれだけ見せたがりなのだろうか。 
おいらはしあわせというものがなんだか邪悪なものに思えてきた。 

7,ストーカーがあとからつけてくる 
「あなたのつけた足あとにゃ きれいな花がさくでしょう」と歌詞は続く。 
もちろん,何もないところに花は咲かない。雑草もきれいな花をつけはしない。となると,誰かが足あとに種をまいたとしか思えない。もちろん,それはストーカーだろう。 
こっちは超スローペースで歩いているのである。それを追い抜かないように,足あとひとつひとつに花の種をまいていくのはストーカー以外に考えられない。 
ということで,ストーカーの存在も明らかになった。 

8,時間の進みがすさまじく遅い 
この後の歌詞にはアインシュタインも驚愕である。 
「腕をふって 足をあげて ワンツー ワンツー 休まないで歩け」である。 
「ワンツー ワンツー」と休まないで歩いて3日で3歩,しかも3日目には休まずに2歩さがるというのであるから,これはもう時間の進みに異常があるとしか思えない。 
おそらく,おいらが感じる0.3秒くらいが,この歌詞の主人公が感じる1日なのであろう。そうでなくてはつじつまがあわない。 


結論 
以上の検討から,しあわせとは「生物ではなく,時空がゆがんでいる場所にいるストーカーにつけ狙われていて他人にやたら苦労自慢をする暴力的かつ運動不足の怠け者が迎えに行くものである」という結論にいたった。 




おいらはしあわせじゃなくてよかったと思う。

温泉の効能表示には科学的・法的根拠はない。 

温泉法によれば禁忌(入ってはいけない,飲んではいけない場合)の表示は義務づけられているが,効能表示に関しては特に規定がない。 
効能表示は都道府県知事の許可を得て行うが,都道府県が効能の科学的調査をしっかりするということはあまりないようである。 
「昔から効能が言い伝えられているから」であるとか「業者が効能として申請してきたことはよほどひどくないかぎりフリーパスで許可している」などというのが実態であると聞く(中には温泉医が調査するところもあるようだが)。 

このように温泉行政は「ぬるま湯」に浸かった状態である
まるで終了直前の「笑っていいとも!」のタモさんのようにだらけきった状態であると言ってよい。 


しかしまた当然温泉は体を温め,血行を良くすることは確実であるから,適切な入り方をすれば体に良い効果があるのもまた事実であろう。AKB48の曲を全曲続けて踊りきればダイエットに良いというのと同じ理屈である。 

ところで,日本人は温泉好きとして知られる。これは日本が火山に覆われていて,いたるところに温泉があるからということと無縁ではないであろう。それに,ジメジメして汗をかきやすい季節と乾燥して寒い季節があるというのも関係があるだろう。汗をかいているところ,寒くてたまらないところに,天然の風呂があれば入りたくなるのも当然だ。温泉に行ったことのない日本人は,そうはいないのではないだろうか(もちろん懲役囚は除いて考える)。 
それに,温泉まで行かなくとも風呂好きの人は多い。ニューヨークという地名をアメリカに取られているのが残念でならないくらいだ。ぜひ日本にも「入浴」という地名をつけるべきである。 


ただし,温泉が好きなのは日本人だけではない。ヨーロッパにおいてもローマ時代から公衆浴場があり,ドイツのバーデン・バーデン(日本語にすると「風呂・風呂」という地名である)やベルギーのスパ(温泉を意味するスパの語源である),イギリスのバース(英語のbathの語源であるという説もある。おそらく真相は逆だが)など温泉地はある(飲用が主であるところがあったり,水着を着用して入るなど,その利用方法は日本と若干異なるが)。アメリカには火山があるので温泉が多くある。 
つまり,人間は基本的に温泉が好きなのだ。 おいらもしろくまだが温泉が大好きであり,3日に1回は温泉に入っている。

温泉は(hot) springという。springはご存じのとおり,「春」という意味も「バネ」という意味もある。いずれも「湧き出る・草木の芽が出る・下にあったものが跳ねる」という下から上にエネルギーが放出されることを意味する共通の言葉である。そもそも"sp"という言葉はすべて「飛び出す,飛び散る,飛び上がる」などの意味がある。 
スプラッシュは水が飛び散り,スパークは火花が飛び散り,スピークは唾が飛び散る。ちなみにスペインではトマトが飛び散る。トマト祭りの後は道も人もベチョベチョだ。温泉に入りたくなってくる。 


おいらも温泉に入りたくなってきた。 
温泉のことばかり考えていたら温泉特有のにおいがしてきた。 



マグマからではなく体内から出たガスのにおいだが。