オヤジギャグ的探究――Oyajigagische Untersuchungen -2ページ目

オヤジギャグ的探究――Oyajigagische Untersuchungen

ただひたすら学問的な考察を行います。ときどき絞殺も行います。

ミカンというと何を思い浮かべるだろうか。 

統計によれば,100人中2人は冬の定番である柑橘系の果物,蜜柑を思い浮かべるようだ。それ以外の98人はハイデガーの”未完”の大作『存在と時間』を思い浮かべることがわかっている(おいらの夢の中調べ)。中には『存在とミカン』とタイトルを勘違いしている人もいるらしい(思いつき)。 


『存在と時間』。おいらには思い出深い本である。今,手元に茶色い表紙のドイツ語原書"Sein und Zeit"がある。この"Sein und Zeit"は忘れられない本である。おいらの記憶からなくなることはないだろう。それは以下の3つの理由による。 

1,手違い 
おいらは"Sein und Zeit"をドイツのアマゾンで注文した。その際,数量入力の手違いで2冊注文してしまった。以来,おいらはこの本を2冊持っている。忘れられない。 

2,放置 
"Sein und Zeit"はドイツ語の本であるが,書き出しはギリシア語で始まっている(プラトン『ソフィステス』からの引用)。もちろん,解説があるのだが・・・開いたとたん「読めないよ!」と叫んで,2カ月ほど放置したという思い出がある。忘れられない。 

3,こぼした 
 "Sein und Zeit"は存在の問題に光を当てた。これまでの哲学で存在とは何かが置き去りにされてきたこと,それをどのように考察していけばよいかなどが論じられている。「存在」の問題が哲学の本質的問いであるということを暴き出した点で,本書には十分な価値がある。後の哲学に大きな影響を与えたのも頷ける。

 しかし,その試みは未完で終わり,「存在と時間」の考察はついにされることがなかった。むしろこの本は「存在の問題」というあたりで終わってしまっているのである。 
 おいらには,ハイデガーが政治(特にナチスの熱狂)に巻き込まれていく過程などをあげつらうつもりはない。ただ,純粋にハイデガーには「存在と時間」を論ずることが不可能になっていたのではないかと思われるのである。 
というのも,時間はおそらく(おいらの考えるところよれば),存在とは無関係である(正確に言えば,存在に組み込まれている時間と存在とは無関係の時間とがあり,存在とは無関係の時間の方に問題があるのである)。むしろ存在とは関係のないアプローチをしなければ,存在から時間を組み立ててしまえばそれは循環論法へと陥ってしまう危険をはらんでいるのではないかと考えている。おいらによれば時間を解き明かすのは言語しかない(存在も言語によるしかないのだが,時間はもっとどうしようもなく言語の問題でしかないように思われる)のであって,存在と時間を関連させて考察すれば,それは存在から時間へ,時間から存在への循環論法(その実は,「存在のあり方」の考察から一歩も抜けられない)に陥るのではないかと考えるのだ。そう。存在と時間との関係の考察には蝶番が欠けているのである。 
 そんなことを考えながら"Sein und Zeit"を読んでいたとき,読みながら食べていた蜜柑を本の上に落としてしまった。蜜柑の汁が染み出て,大きなシミをつくってしまった。だから,この本を見るとミカンを思い出す。 

つまり,おいらの思い出も,存在→時間→存在→時間・・・となるこの本のように,ミカン→『存在と時間』→ミカン→『存在と時間』・・・と循環しているのである。 
なかなか忘れ難い。 

「存在とミカン」"Sein und Orange" (未完) 

 

 

 

 

冬は空気が冷えている。 
「冷える」の「冷ゆ(ひゆ)」が転じて「冬(ふゆ)」になったという語源説に賛成したいくらい寒い。同時に,寒さが猛威を振るい,体が震えるので「ふゆ(振るう,震える)」から「冬(ふゆ)」になったという説も説得力を持っている。なお,おいらは震えすぎの西野カナが冬を作ったという新説を主張している。おそらく会いたいのだろう。

冬になると,おいらは乾燥肌に悩まされる。特に唇と腕,背中が乾燥してしまうのだ。あまりに乾燥しすぎるので,アーカンソー州に住んでいるのかと思うくらいだ。このような悩みを抱えている者は多いだろう。 

ところが,ヨーロッパの多くの地域においては,冬は湿気の多い季節であり,乾燥とは無縁である。日本と違い,夏は乾燥していて,冬に湿っている。それゆえ,英語の"winter"は,"water(水)"や"wet(湿り)"と同語源で「湿った季節」という意味であるという。
このように,単純に日本語で「冬」を英語で"winter"と呼ぶのだといっても,そこから想起されるイメージには大きな違いがある。「冬」という言葉を聞いたら,ヨーロッパ人は湿った季節を連想し,日本人は広瀬香美を連想する。

しかし,共通のイメージがまったくないわけではない。それは「秘められた生命力」である。我々クマは冬眠をするのだが,それは穴蔵で出産するためである。生命は冬の間にその力を密かに蓄えて子孫をつくっていく。「冬」のもうひとつの語源説「増ゆ」である。そこから「春(張る・表に出てくる)」につながるのだ。 
英語においても"winter"は水であり,"spring"は「水や草木,生命が湧き出る様子」である。 
いずれも冬の間に生命が密かに蓄えられ,そして春になるとそれが地表に湧き出してくるというイメージがある。これが人間の素朴な季節感なのだろう。冬は生命の季節でもある。 
源氏物語において「冬の御方」とも呼ばれる明石の君が,低い身分でありながら源氏の子を産み,耐え忍びながらも着実に出世の道を辿り,やがて源氏の死後まで生きながらえるのも偶然ではあるまい。紫式部には「冬」に対する「秘められた生命力」という明確なイメージがあったに違いない。 



だが最近,冬の生命力に疑念を抱かせる重大事件が生じているのだ。それはおいらの頭を悩ませている。本当に冬には生命力が秘められているのだろうか。 
おいらの頭をひどく悩ませる難問である。おいらの頭はその難問の前で悩んでいる。 





最近,頭髪に生命力が感じられない。まるでモト冬樹氏みたいだ。 
「春(生える)」よ来い。

「夢」という語には2つの意味がある。 

寝ている間に見る夢(第1の意味)と将来の希望という意味の夢(第2の意味)である。これは英語のdreamも同様であるが,この一致は驚くべきことではない。 

日本語において夢は,その語源が「寝目(いめ)」であることからも明らかなように,かつては第1の意味しかもっていなかった。将来の希望という意味で「夢」が使われ始めるのは,日本が西洋文明に接した近代以降のことである。つまり,「夢」の第1の意味は「昔からある日本語」であり,第2の意味は「外来語(外来意味)」なのである。 
いわば,ミニスカートの日本流行がツィギー来日以降であり,ミニスカートが舶来品であるのと同様である。個人的にはおいらの若い頃にニーハイソックスもミニスカートと一緒に流行っていてほしかった。それとメイド服とウサ耳も一緒に流行っていてほしかった。あとついでに5億円ほしい。

まあ,このように日本語の「夢」は,寝ている間に見るものという意味であった。

これに対して,英語のdream,ドイツ語のTraumは「楽しみ」という意味の古語に由来しており,「希望」という第2の意味合いがむしろ大きいようである。これがいつから第1の意味も含む2つの意味を持つようになったのかは寡聞にして知らないが,おそらく歴史上のかなり早い段階であろう。映画「男はつらいよ」にたとえると,寅さんが旅先から帰ってくるあたりの段階であり,ファイナルファンタジー2にたとえると主人公たちが「くろきし」に殺されるあたりの段階である。
というのも,夢は人間にとって不思議なものとしてとらえられてきたからである。 

日本では古来,「夢に出てきた人は自分のことが好き」と考えていた。現代人と逆である。たとえば,おいらの夢の中にペネロペ・クルスが出てきたら,平安時代のおいらは「ペネロペ・クルスがおいらに惚れている」と考えたのである。 
これは,超絶ポジティヴ・シンキングである。平安人はたぶんストレスとは無縁だったにちがいない。そして,極度の勘違い野郎で溢れかえっていたにちがいない。 
おそらく会話は以下の感じであっただろう。 

平安人A「昨日さ~夢に皆藤愛子が出てきちゃったんだけど~」 
平安人B「マジで~? じゃあ,愛ちゃんお前のこと好きなんじゃね? 俺っちの夢にはトランプ大統領が出てきたんだけど~!」 
平安人A「すげ~」 
平安人B「疲れからかエアフォースワンに追突してしまったんだよね~」 

と,このような会話が平安時代に行われていたことは想像に難くない。 


ヨーロッパではフロイトの夢判断が有名である。 
フロイトは夢の内容を元に精神を分析できると考えた。フロイトによれば,夢は無意識に選択された記憶によって構成されるという。彼は,無意識は,意識が普段抑圧している性欲を意識の検閲を回避して夢に表出させると論じた。つまり,日頃は意識的に抑えている性欲が,夢の中では無意識によって記憶という素材を使って間接的に表現されるというのだ。そのため,彼の夢判断はいきおい性欲的解釈になりがちである。


患者A「蛇の夢を見たんですけど」 
フロイト「性的な夢ですね」 
患者B「大木の周りをウサギが跳び回っている夢を見ました」 
フロイト「性的な夢ですね」 
患者C「野原で花を摘んでいたら,どこからか歌声が聞こえてきたんです」 
フロイト「性的な夢ですね」 
患者D「なんだか暗いところでひとり泣いている夢でした。向こう側には大きな海が広がり,そして空の色は……」 
フロイト「もうわかりました。性的な夢ですね」 

患者E「昨日......」

フロイト「性的です!」

患者F「......」

フロイト「性的!」

このようにフロイトの判断は居酒屋のおやじの猥談のように,たいへんな説得力を有していた。

現代の科学においては,夢は完全に解明されているわけではないが,睡眠中の脳の処理に関係していると考えられている。眼球が早く動くレム睡眠(REM=Rapid eye movement=目が南海ラピートに乗って移動するという意味)のときに多く夢を見るといわれている。このときは眠りが浅く,夢を記憶していることもしばしばである。おそらく脳の短期記憶を長期記憶に変換する際の,記憶の取捨選択,情報の組み合わせなどが夢となって現れるのだろう。 


しかし,おいらは平安時代の夢理解が正しいと考えたい。 
やはり夢に出てきた人は自分に気があると考えた方がポジティヴでよろしい。勘違いして相手に迷惑をかけてはいけないが,そうでもない限り,夢を楽しむのは良いことだろう。 
おいらはひとまず有村架純と広瀬すずに今夜の夢に出てきてほしいと思う。出てきたら,彼女たちはおいらのことが好きだということになるのだ。

 

ちなみにフロイトが判断すれば「欲求不満」というだろう。

なんだかフロイトが正しい気がしてきた。

 

 

 

 

「会議」

 

 この言葉を聞いた時どのような反応をするか。社会人には2通りの人間がいる。ひとつは嬉々とした表情を浮かべ目をうるうるさせるタイプであり,もうひとつは恐怖,驚愕,狼狽の表情を浮かべ,時に嘔吐し,体を痙攣させるタイプである。おいらの独自調査によれば,前者は約0.00001%の確率で存在し,あとはすべて後者である。もちろんおいらは後者である。 
 しかし,不思議なことに,会議には必ず前者のタイプが複数人出席しているのだ。そして,その数人の会議好きのおかげをもって会議は迷走することになる。 

 会議参加者の8割は「こんな会議意味がない」と思っている。1割は「会議に意味はあるけど,事前にもっと案を練っておけば,こんなに長時間会議する必要はないのに」と思っている,残り1割は「ここでは問題点を出して,あとは担当者で決めてくれればそれでいい」と思っている。これで10割になるのだが,なぜか2人以上はそう思ってない人間が存在する。統計の暗数とはこのようなものだ。 

「そうおっしゃいますけど,私は違うと思います!!」 
「その案は,前回の案と矛盾するのではありませんか!!!」 
「もっと時間をかけて話し合うべきです!!!」 
「さあ,会議をもっと続けるべきかどうか,会議しましょう!」 
「この会議に先立って会議を開いてきましたが,この会議が終わった後も会議を開きましょう!!」 



と主張する人間が100%の確率で複数人存在する。そして,彼らの意見は必ず割れている。必ず激論が勃発し,そしてその内容はたいてい「どうでもいいこと」である。 

 昔「男は黙ってサッポロビール」というCMがあったが,まさに「人間は黙って会議に臨め」の心境になる。間違っても「そんな議題はどうでもいいじゃないですか」と言ってはいけない。そんなことを言えば,袋叩きにあって,会議時間が延びてしまう。下手をすれば「この議題がどうでもいいかどうか会議しましょう!」となりかねない。そういうときは,手元の資料に「くだらないことを議論して,時間の無駄ですよね」と書いて,隣の人に見せるのが最善の策だ。そうしたら隣の人はウンウンとうなずいてくれるだろう。せめてもの暇つぶしである。 

 おいらが踊る大走査線の青島刑事ならこう言いたい。「事件は現場で起きてるんじゃない! 会議室で起きてるんだ!」  「会議,封鎖できません!」

 会議で議論が続けば続くほど議論は迷走し,結局のところ「それではもう一度会議を開きましょう」という結論をもって閉会となる。
 議長が気のきいた人なら,会議好きの都合が悪い日を次回会議日に設定する。それでやっと「原案通り」となるのである。 

  
 いや,これは決して悪いことではない。民主制にとって意見表明・討議・説得・表決は必要なプロセスである。意思決定において会議は欠かせない。しかし,無駄に時間を浪費することが美しいとはおいらには思えないのである。 

 おいらは,会議に対して懐疑の立場をとっている。

今日は成人の日である。

「こりん星から来たりんごももか姫だよ」((c)小倉優子)という星人の日ではなく,「こんにちはミラの聖ニコラオです」という聖人の日でもなく,式典の妨害や破壊活動でおなじみの成人の日である。

 

人は成長すると物の見方が変わってくるものだ。ひとりの人間であっても,幼児期,少年期,青年期,壮年期,老年期,腰痛期,ハゲ期,骸骨期などで,考え方が違ったりする。成長とはそういうものなのだ。たとえば,ある人は成長とともにこりん星の話をしなくなった。

 

ところで,ミシェル・フーコーは,人間社会も,その時代時代で考え方の土台が異なると考えた。この考え方の土台を,「エピステーメー」と呼ぶ。エピステーメーとは,「科学」または「知」と訳されるギリシャ語であり,フーコーはここからこの概念をつくりだしたと考えられている。しかし,おいらは違う説を唱えたい。以前東京で若者が蛭子能収氏を見つけて「エビス,テメー!」と叫んでいるのを見たことがある。おそらく,フーコーもこのエピソードから「蛭子能収氏の見え方も人によって違うのだ」と気づき,エピステーメーの着想を得たのだろう。また,「千葉県茂原市が人によってはこりん星に見えることもあるのだ」とフーコーが気づいた可能性もある。

 

さて,フーコーは,16世紀,17~18世紀,19世紀~の3時代でヨーロッパのエピステーメーは変化したと論じる。おおまかにいえば,古い時代は似たもの同士の関連や一致を思考の基礎とし,現代に至って人間は自分自身を思考するようになったというのである。「ゆうこりん」の末尾から「こりん」を導き出し,「こりん星」をつくりだしていた時代は過ぎ去り,現在では自分の立ち位置を考えるようになったのと似ている。

 

思い起こしてみれば,おいらが成人したときはまだ若かった。おそらく20歳そこそこだったのではないか。皆も成人の頃を思い起こしてみるとよい。たぶん20歳程度の若者だっただろう。まだ成人を迎えていない者は,成人するときを想像してみると良い。きっと20歳くらいなのではないか。ただ,もしあなたが声優の田村ゆかりさんなら,17歳で成人を迎えたことにしておいてあげよう(実際は2倍成人である)。

 

未熟なうちはフーコーのいうとおり似たもの同士の関連や一致を思考の基礎としていたような気もする。気の合う者同士で仲良くなり,仲間はずれをおそれ,流行に流されていた。それが成熟するにつれて変わってきた。自己が確立し,決して他人におもねらず,しっかりと自分の足で生きていくようになった。別の言い方をすれば,ただ友達がいなくなっただけだが,放っておいてほしい。こりん星だって,もう放っておいてほしいはずだ。蒸し返してはよくない。放っておいてあげよう。あまりこりん星をいつまでもいじってはいけないと思う。もうこりん星の話題はやめよう。金輪際,こりん星の話題はやめよう。そう。金輪際(りんざい)。

 

フーコーの主著『言葉と者』は意味深な言葉で閉じられている。「賭けてもいい。人間は波打ち際の砂の表情のように消滅するだろう」と。

おいらも賭けてもいい。こりん星は黒歴史のように消滅するだろう,と。

 

なお,「振り子」のフーコーはジャン・ベルナール・レオン・フーコーであり,ミシェル・フーコーとは別人である。もし振り子のフーコーと同一人物なら「振り子」と「フーコー」でオヤジギャグがいえたのに残念である。

 

最後に新成人にお祝いの言葉を贈りたい。

成人おめでとう!

 ――  フーコりんより

 

 

 

寒さが一段と厳しく,容赦ない冷気が毎日のようにおいらに襲いかかる。 
ヒャドというよりヒャダルコ,ヒャダルコというよりヒャダイン,ヒャダインというよりマヒャド,マヒャドというよりマヒャドデスである。一言でいえばブリザガである。 また,おいらのオヤジギャグのようだともいえるかもしれない。

このような冷気の中で,おいらは暖炉の影を求めている。デカルトが真理への格率を思索したときに常に傍にあった暖炉である。そしてふと気づく。おいらには暖炉が足りない。それとお金が足りない。あとアイドルとお付き合いしたい。そして高級松阪牛をプレゼントされたい。インドカレーを食べたい。おいらは控えめ過ぎて欲が足りないと自分で思う。 

嘆きの言葉が口をついて出る。 
「神よ! なぜこんなに寒いのですか?」 
「神よ! なぜこんなにお腹が空くのですか?」 
「神よ! なぜ広瀬すずが我が家にホームステイしないのですか?」 

「神よ! レース前に当たり馬券を教えてください!」

ここで想起されるのが,知識・認識(グノーシス)によって神にたどり着こうとしたグノーシス主義と,それと決別してキリスト教神学を打ち立てた聖アウグスティヌスの対決である。 

グノーシス主義はこう言った。 
「世の中には悪が溢れている。貧困も悲しみも世の中に溢れている。この世が悪で満ち満ちているのは,悪なる神がこの世をつくったからだ」 
そう。全知全能の唯一神を信じる者にとって悪の存在は大きな弱点であった。これに応えたのが聖アウグスティヌスである。 

聖アウグスティヌスはこう言った。 
「世の中に悪が存在するわけではない。神は善を施し,その善の現れ方に濃淡の差があるだけなのだ。悪に見えるものは悪という存在ではなく,善の欠如にすぎないのだ」 

次のような喩えをしてみよう。たとえば夜の暗い部屋を懐中電燈で照らしてみるとする。すると,電燈の近くは明るく,電燈から離れれば暗い。では,そこには闇があるのか。いいや。闇などというのはそもそも存在しないのだ。ただそこには「光が届いていない。光が足りない」という現象があるだけで,闇などは存在しないのである。電燈が光を発していることは疑いようもなく,電燈に近づけば光を享受できるのだ。結局「光のある・なし」が問題となるだけで,暗い場所が存在したとしても,それによって闇の存在が証明されるわけではないというのだ。 
このような「善の欠如としての悪」という考えは,詭弁ではないかという批判にさらされながらも,神学の大きな流れを作っていった。これが後の神学者「トマス・アクィナスは嫁に食わせるな」によって形を変えて完成させられていくのである。 たとえば,「貧乳は存在しない。乳の欠如にすぎない」といったように。

このような聖アウグスティヌスの議論を思い起こしながら,ふとおいらは自分の状態を考える。 
おいらは冷気に襲われているのではない。冷気などそもそも存在しないのだ。そこにあるのは「暖気の欠如」である。暖めるものがないから寒く感じるのだ。冷気がそこにあるわけではない。冷気はおいらに襲いかかってきてなどいないのだ。ただおいらには暖房器具が足りないだけなのだ。 
おいらには「広瀬すずの欠如」や「金の欠如」や「松阪牛の欠如」があるだけで,決して不幸が襲いかかってきているのではないのだ。 

このような結論に達して,戦闘中に勇者が死んでしまった僧侶に対してザオラルを唱えたら一回で僧侶が生き返った時のように安心した。また,スーパーマリオ1-1の最初の1UPキノコを取った後,画面後方ギリギリにあるワープ土管に入れたときのようにホッとした。あるいはブックオフでたいして汚れてもいない良い本に108円のシールが貼ってあった時のように喜んだ。 

一安心したのでまた眠ろうと思う。 

つまり「やる気の欠如」である。

 

 

 

 

 

 体重の増減が激しい。 

 夏は比較的涼しい夜明け前にウォーキングにでかけるが,冬は寒くて朝あまり歩く気が起きない。そういうことに起因して,おいらの場合,夏に体重が減り,冬に体重が増えるのである。しかし,このままではいけない。アイドルとお付き合いするためには,なんとか体重の増加をおさえておく必要があるのだ。ただ,アイドルをプロデュースする場合は体重は重(自主規制)。そこで,おいらは体重を減らす計画を練ることにした。そして,ついに画期的な方法にたどり着いたのである。 ダイエットは以下の方法で簡単に可能である。


[計画1]赤道付近へ移住する 
 よく知られているが,体重は赤道直下で最も軽く,北極・南極で最も重くなる。同じ人が同じ状態で体重計に乗ったとして,その計測地が赤道に近ければ近いほど,体重計の針は軽い方をさす。なぜか。 
 地球を想像してほしい。地球は地軸を中心に自転している。地球は球体であるから,ボールを回転させたときとまったく同様に,中心点を通る地軸と垂直の平面(つまり地球では赤道付近)が一番高速度で回転している。それゆえ,その地点が一番遠心力がかかるのである。北極近くの地軸上では地球から離れる遠心力はほとんどかからない。その場でコマのように回転しているだけだからだ。しかし,赤道上に立てば,地球に振り落とされんばかりの勢いで,地球から離れる遠心力がかかる。それゆえ体重は赤道付近で軽くでるのだ。各国のロケット発射台が可能な限り赤道近くにあるのはこの理由による(日本は種子島だ)。 
 そこで,もっとも手っ取り早いダイエットは,赤道付近へ移住することだ。何もしなくても体重は軽く表示される。 そして,反本質主義の立場からすれば,体重は表示がその全てである。


[計画2]シャイロックに金を借りて返さない 
 いわずと知れたシェークスピアの戯曲『ヴェニスの商人』。この物語に登場するユダヤ人金貸しのシャイロックは,金を期日までに返さなければ借りた者の肉1ポンドを要求するという。それなら,シャイロックに金を借りて,返さずにおればよい。そうすれば腹の肉1ポンドをシャイロックは持っていってくれるのだ。 
 お手軽ダイエットである。 


[計画3]クリボーにぶつかる 
 おいらの知人であるマリオさんは,キノコの食べすぎによってひどく体重が増えることがある。しかし,クリボーなるマッシュルームに擬態したような虫の一種(おそらく冬虫夏草)に遭遇すると,一気に体重が半分程度まで減るのだ。これを利用する手もあるだろう。ただし,2度ぶつかると地面の下に落ちてしまうので注意が必要だ。 
 なお,その際,伸縮自在の服を着ておく必要がある。 そうしないと「のび太さんのエッチ状態」になってしまうからである。


 以上の計画でやせることができるだろう。来年からがんばろうとおもう。 

体重の減少学

 

 

 

 

1 胃腸の内容は摂取した食物の総体である。 
1.2 食物は分解されると排泄物になる。 
1.21 個々の食物は消化される事も可能であり,消化されないことも可能である。 

2 消化している事柄――広い意味での消化――は,排泄物の成立である。 
2.01 消化とは諸食物と消化液の結合である。 
2.011 消化の構成要素であり得るという事が,食物にとって本質的なのである。 
2・012 消化においては,偶然的な事はなにもない。もし胃腸の中にある食物があるのなら,それはあらかじめ口の中に入れられたものである。 
2.0124 食物が与えられるならば,同時に消化液も与えられる。 
2.013 食物はすべて,いわばそれが入りうる胃腸という空間の中にある。私はこの空間が空っぽであることは想像できるが,しかし私は,この空間なしに食物を消化することはできない。 
2.0232 ついでにいうと,胃腸の中の食物に味はない。 
2.0272 食物の配置が腹痛を構成する。 
2.04 消化している場所の全体が腹部である。 
2.1 我々は自らの内に腹痛をつくる。 
2.141 腹痛は一つの事実である。 
2.1512 腹痛は,物差しのように,腹部にあてがわれる。 
2.202 腹痛は胃腸において危機的状況を表現する。 
2.221 腹痛が表現するもの。それが腹痛の意味である。 

3 腹痛の現象的像が脂汗である。 
3.001 「脂汗が出ている」という事は,我々は自らの内にその腹痛を作りうるという事である。
3.04 ア・ブラアセとよばれる脂汗とは,その可能性がその腹痛を保証するものであろう。 
3.12 我々が流す脂汗を,私は腹痛記号と名づける。そして腹痛とは,私に対して投影関係にある腹痛記号なのである。 
3.141 腹痛は,胃痛と腸痛の寄せ集めではない。音楽の主題が音の寄せ集めではないように。 
3.22 表情は,腹痛において,脂汗の代理をする。 
3.31 顔の部分で,腹痛の意味の規定に寄与するものは何であれ,私は表情と呼ぶ。 

4 腹痛は有意味な刺激である。 
4.001 刺激の総体が,痛みである。 
4.002 人間は,その痛みが何を意味するかについて,おぼろげな知識すらも持つことなしに,いかなる痛みをも表現し得る表情を構築する能力を持っている。 
4.003 医学的な効能が書かれた大抵の医薬品や漢方薬は,ないのではなく消費期限切れなのである。それゆえ,我々は,その種の医薬品については,そもそも摂取することはできず,ただそれが消費期限切れであることを突き止めることができるだけなのである。 
4.0031 すべての腹痛は「暴飲暴食批判」である。 
4.024 腹痛を理解するという事は,もしそれが自分ならばどんなに痛いかを知ることである。 
4.05 腹痛は頭痛と比べられる。 

5 腹痛のあだ名は「モレル大佐」である。 
5.2 モレル大佐の構造は,相互に内的関係にある。 
5.3 すべてのモレルは,腹痛に対する手遅れの結果命題である。 
5.453 腹痛においてすべてのモレルは,正当化されなければならない。 
5.621 トイレと便所は同一物である。 
5.63 トイレは,私の世界そのものである。 
5.631 モレル大佐に焦る私は,トイレには存在しない。 

6 痛みの一般形式はこうである。〔イタタ,アイタタタ,ウー(イタタタタ)〕 
6.022 痛みという概念は,すべての箇所に発生しうるものに他ならない。 
6.3 腹痛の探究は,全痛みの探究を意味する。そして痛みの外側にあるものはすべて安らぎである。 
6.4 すべての痛みは等価値である。 

7 出せるものについては出しきらなくてはならない。 

 

 

 

 

「人間は考える葦である」,「哲学的しろくまには短い脚がある」,「クレオパトラの鼻がもう少し低かったら,歴史は変わっていただろう」,「篠田麻里子の鼻がもう少し低かったら,選抜入りはできなかっただろう」,「哲学的しろくまの脚がもう少し長くて,鼻がもう少し高くて,目がキリッとしていて,サラサラヘアーだったらジャニーズ事務所に入っていただろう」などの名言で知られるパスカルの『パンセ』。バブル期の女性はこの『パンセ』を読んで「男はどう考えてもアッシーである」との結論に至ったという。このタイトル「パンセ」とはフランス語で単に「思想」や「思想録」といった程度の意味である。 

というのも,この書はパスカルが死んだ後にパスカルの遺稿やメモを整理して出版されたものであり,正式なタイトルは『死後遺稿の中に発見された宗教およびその他若干の問題についてのパスカルの思想』というものであったのだ。これを略して『パンセ(思想)』と呼ばれている。 

パスカルは哲学者,数学者,宗教家として知られるほか,事業家としての一面もある。パスカルの名前にちなんでつけられた気圧の単位「パスカル(ヘクト・パスカル)」や計算機を発明したことで有名であるが,そのほか,富裕層の乗り物であった馬車を「乗り合い馬車」として庶民に提供する会社をつくり,いわゆるタクシー・バスの原型をつくったのも彼である。さらに,アライグマ・パスカル(あれ? ラスカルだった?)やベルサイユのバラのパスカル(あれ? オスカル?)としても有名であるかもしれない。 

このパンセには,多くの名言が含まれている。 
その中で最も有名なのが「人間は一本の葦に過ぎない。自然の中でもっとも弱いものである。しかし,それは考える葦である」というものだろう。人間存在の弱さと,思考のもたらす強さを表現したものである。パスカルは人間が自然にはかなわないことを看破しながら,それでも人間は思考することによって強くなれると考えていたのである。 

彼は同様のことを何度も繰り返し言っている。「人間は思考によって宇宙を包み込むことができる」,「思考が人間を偉大にする」,「人間は考えるために生まれた。だから,一瞬たりとも考えないではいられない」,「人類は絶えず学び続ける唯一の存在である」と。つまり,考えることが人間の最大の強みだとパスカルは考えたのである。 
おいらも四六時中(くだらないことを)考えているから,パスカル流にいえば素晴らしく強い存在なのである。もっとみんながひれ伏せば良いと思う。 ひれ伏すだけじゃなくてお金をくれるともっと良いと思う。

さらに,パスカルは「人間には二種類しかいない。自分を罪人と思っている良き人と自分を良き人と思っている罪人である」と言っている。私はこれにちなんで次のような名言を残したい。「人間には二種類しかいない。自分をExileメンバーと思っているExileメンバーと自分をExileメンバーと思っていないExileメンバー以外である」と。人類がこの名言っぷりを理解するのにあと100年はかかるだろう。これに加えて「チャゲ&(自主規制)には二種類の人間しかいない。チャゲと(自主規制)である」との名言も残しておこう。 

また,「力なき正義は無能であり,正義なき力は圧政である」という言葉にも注目したい。まさにそのとおりである。ひ弱な正義はすぐに打ち破られる。力が正義によってコントロールされていなければ,それは単なる暴力である。パスカルのこの言葉は短いけれども,真理を述べているといえる。 
おそらくパスカルはこの名言をつくるにあたって,おいらが日頃から主張している「おっぱいなき人生は空虚であり,人生なきおっぱいは飲めない」という名言にヒントを得たに違いない。おっぱいがあっても人生がなければおっぱいを飲むことができないという真理をズバリ突いたおいらの思考は,パスカルによっても超えられなかったと言ってよいだろう。異論はないと思うが,異論がある人はテレパシーで伝えてほしい。 

しかし,パスカルにも誤りはある。パスカルは「我々は理性によってではなく,心によって真実を知る」と述べるが,これは間違いである。私は真実を知っているが,心で知ったのではない。たしか「ヤングマガジン」か「めちゃイケ」によって真実を知ったのだったと思う。ところで,パスカルは2004年ミスマガジン読者特別賞の山崎真実をどこで知ったのだろうか。本当に心で知ったのだとしたら,それはすごいことだ。 


なお,人生に迷ったときはパスカルを読んで救われることをおすすめしたい。

というのも「パスカルで助かる」というギャグが完成するからである。

 

 

 

コミュニケーション(複数人間の意思疎通,意思の連絡)は,人間の社会活動の根幹を成している。社会生活をコミュニケーションなしで行うことは,およそ考えられない。コミュニケーションはその意味において人間社会の必要不可欠な手段なのであって,それはあたかも平和の存在にとって有村架純が必要不可欠なのと同様である(そして有村架純にはおいらの愛が必要不可欠である)。 

 しかし,一般にスムーズでストレスのないコミュニケーションの構築は困難であると考えられている。発し手と受け手との間に情報に関する齟齬が生じ,いわゆる「誤解」が発生してしまうことは誰もが経験的に知っている。たとえば,ヤマトカワゴカイだと思っていたものがヒメヤマトカワゴカイだったというような誤解は誰もが経験しているだろう。 
 また,三倉茉奈だと思ったら三倉佳奈だった,ケンドーコバヤシの後ろ姿かと思ったらキム兄の後ろ姿だった,某国でSony製品を買ったと思ったらSany製品だったなどという誤解もよくあることであろう。 

 このような誤解は,それが単に一回性の誤解にとどまるならば大きな問題はない。必要なタイミングで誤解を正せばいいのである。しかし,誤解によって人間関係に大なり小なりの亀裂が入ってしまった結果,コミュニケーションそのものを億劫に感じることがあり,それは大きな問題である。 
 「どうせ僕の言うことは理解されない」,「けっきょくあいつは何を言いたいかわからない」という壁が自然に形成され,コミュニケーションを回避してしまうのである。やってみれば上手くいくかもしれないのに,コミュニケーションを事前に回避してしまう。あるいはなんとかコミュニケーションに入れたとしても,及び腰になって,結局またうまく意思疎通が図れなかったりする。これは現代の問題点である。 

 おいらなどは最初からあきらめたりすることはない。たとえば12時30分ころにはすでに終わってしまった「笑ってイイとも!」から電話がかかってくるんじゃないかと思って,いまだに電話の近くにいることにしている。いつかアヴリル・ラヴィーンに出会って,ロマンスに落ちるかもしれないと考えて,「ハーイ! アヴリル!」という声掛けの練習を欠かさない。四暗刻単騎が来るのではないかと思い,対々和狙いでやたら刻子をポンしたりしない。このように,おいらは常に前向きに,様々な状況への準備をしている。 

 だから,おいらは四暗刻単騎をテンパっているときにテレフォンショッキング出演中のアヴリル・ラヴィーンから電話がかかってきたとしても,まったく焦らずに冷静に「ハーイ! アヴリル! ロン! いいともー!」と答えるだろう。素晴らしいコミュニケーション能力である。 

 さらに考えたいのは非言語コミュニケーションである。たとえば笑顔で好意を伝え,泣き顔で悲しみを伝え,真顔で親から受け継いだ顔面遺伝子のレベルを伝えるのがそれである。これらのコミュニケーションは言語的でない分,緻密さに欠けるが,情緒に訴えるためインパクトは大きい。そして,この非言語表現は言語表現と併用することによって,意思疎通を補完することができるという利点がある。 
 女性がしつこく迫る男性に対し怒った顔をしながら「やだ!」と言えばそれは拒絶の意思表示であり,それでもやめない男はダメなやつということになるだろうし,迫る男に対し笑顔で「や~だ~」などと女性が応えていたら,それはイチャイチャしているのであって,それはそれでうらやましいのでダメな男だということになるだろう。 

 最後に考えたいのは媒介のあるコミュニケーションである。たとえば交換日記がそれである。直接言語を発するのではなく,ある媒介に言語表現をし,その媒介を通じてコミュニケーションを取るというものである。 
 この場合,大切なのは受け手の反応である。もし交換日記1通目から相手が無反応であれば,それは交換日記ではなくて孤独な近況報告にしかならない。媒介のあるコミュニケーション,つまり間接的コミュニケーションの成立に必要不可欠なのは,相手の反応なのである。 
 もちろん,このブログ記事も間接的コミュニケーションである。 

 反応として「イイネ!」ボタンを押しなさい。