ミカンというと何を思い浮かべるだろうか。
統計によれば,100人中2人は冬の定番である柑橘系の果物,蜜柑を思い浮かべるようだ。それ以外の98人はハイデガーの”未完”の大作『存在と時間』を思い浮かべることがわかっている(おいらの夢の中調べ)。中には『存在とミカン』とタイトルを勘違いしている人もいるらしい(思いつき)。
『存在と時間』。おいらには思い出深い本である。今,手元に茶色い表紙のドイツ語原書"Sein und Zeit"がある。この"Sein und Zeit"は忘れられない本である。おいらの記憶からなくなることはないだろう。それは以下の3つの理由による。
1,手違い
おいらは"Sein und Zeit"をドイツのアマゾンで注文した。その際,数量入力の手違いで2冊注文してしまった。以来,おいらはこの本を2冊持っている。忘れられない。
2,放置
"Sein und Zeit"はドイツ語の本であるが,書き出しはギリシア語で始まっている(プラトン『ソフィステス』からの引用)。もちろん,解説があるのだが・・・開いたとたん「読めないよ!」と叫んで,2カ月ほど放置したという思い出がある。忘れられない。
3,こぼした
"Sein und Zeit"は存在の問題に光を当てた。これまでの哲学で存在とは何かが置き去りにされてきたこと,それをどのように考察していけばよいかなどが論じられている。「存在」の問題が哲学の本質的問いであるということを暴き出した点で,本書には十分な価値がある。後の哲学に大きな影響を与えたのも頷ける。
しかし,その試みは未完で終わり,「存在と時間」の考察はついにされることがなかった。むしろこの本は「存在の問題」というあたりで終わってしまっているのである。
おいらには,ハイデガーが政治(特にナチスの熱狂)に巻き込まれていく過程などをあげつらうつもりはない。ただ,純粋にハイデガーには「存在と時間」を論ずることが不可能になっていたのではないかと思われるのである。
というのも,時間はおそらく(おいらの考えるところよれば),存在とは無関係である(正確に言えば,存在に組み込まれている時間と存在とは無関係の時間とがあり,存在とは無関係の時間の方に問題があるのである)。むしろ存在とは関係のないアプローチをしなければ,存在から時間を組み立ててしまえばそれは循環論法へと陥ってしまう危険をはらんでいるのではないかと考えている。おいらによれば時間を解き明かすのは言語しかない(存在も言語によるしかないのだが,時間はもっとどうしようもなく言語の問題でしかないように思われる)のであって,存在と時間を関連させて考察すれば,それは存在から時間へ,時間から存在への循環論法(その実は,「存在のあり方」の考察から一歩も抜けられない)に陥るのではないかと考えるのだ。そう。存在と時間との関係の考察には蝶番が欠けているのである。
そんなことを考えながら"Sein und Zeit"を読んでいたとき,読みながら食べていた蜜柑を本の上に落としてしまった。蜜柑の汁が染み出て,大きなシミをつくってしまった。だから,この本を見るとミカンを思い出す。
つまり,おいらの思い出も,存在→時間→存在→時間・・・となるこの本のように,ミカン→『存在と時間』→ミカン→『存在と時間』・・・と循環しているのである。
なかなか忘れ難い。
「存在とミカン」"Sein und Orange" (未完)
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