消えた蝦夷(えみし)~大和朝廷~東北のおむすび | 愛唱会ジャーナル

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北国に住んでいた頃から疑問に思っていたのだが、「蝦夷(えみし)」とは一体何者か。字面からは、北海道のアイヌを連想する。アイヌ語起源と思われる地名が多数残されていることからも、昔は本州(特に東北地方)にアイヌが住んでいたとしても不自然ではない。
 
が、大和朝廷との抗争に関する読み物では、アイヌらしさは浮かばない。どうも日本人そのもののようだ。義経と奥州藤原氏三代あたりの時代になると、異人種という理解の入り込む余地は無い。
 
ただ、古い記録からは、「容貌が異様で、野蛮で、獰猛で、分化水準が低く、朝廷と仲良くしない」というイメージが強い。そこで素人は途方に暮れることになる。
 
そんなとき、関裕二著「新・古代史謎解き紀行 消えた蝦夷たちの謎 東北編」が目に付いた。我が疑問にズバリ答えるタイトルに、格好の書とばかり図書館から借りて読んだ。
 
初は期待感が強く、熱心に読んだが、段々飽きてきた。冗長なのだ。著者は紀行作家気取りで各地の思い出を気持ち良さそうに書き綴るのだが、こちらとしては、早く答えを見たいのだ。
話があちこちに飛ぶうち、漸く最後に辿り着いてみれば、極く常識的な結論だった。「蝦夷という人種は存在しなかった。東北に勢力を張っていた住人を朝廷(藤原氏)側の事情で蛮族視する呼称を付けていた」とのことだ。
 
説得力は十分だ。従来このような説を唱えた学者はいなかったのか。結論自体には文句は無いが、本のページ数を稼ぐための水増しが多いという印象は拭えない。途中の論証も順不同の印象がある。
 
正確さにも疑問がある。例えば、「古麻呂は大伴家持の子で旅人の甥に当たる。」と述べている(225ページ)。家持は旅人の子だから、古麻呂は旅人の甥ではなく、孫でなければならない。ちなみに、大伴古麻呂の親子関係については諸説あり、「家持のいとこ、旅人の甥」とする系図もあるそうだ。
それはともかく、「東北人のつくるおむすびはまん丸で大きい」と書いているのが気に入った。さくらの会の長老、コーゾーさんがいつも持参するおにぎりはまんまるで大きくて、しかもしっかりと締め固められているのだ。奥様の愛情が密に詰まっていると皆んなが感心する。
 
秋田駅に降り立った二十数年前の感想も興味深い。駅前にたむろする若者達の身だしなみが、東京の繁華街を闊歩する人たちも顔負けするほど最新モードだったという。
 
バブル景気が遠い昔の話になった今はそれほどでもないだろうと著者は想像しているが、そんなことはない。消費生活の傾向として、一旦身に付けたレベルは簡単に落とせないのだ。
 
今でも秋田の駅前は大都会と変わらないきらびやかな人たちが歩いている。秋田に限らない。日本中どこも同じなのだ。リトルトウキョウの蔓延との批判もあるが、全国的な平準化は、必ずしも悪いことではない。
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