大伴家持~秋田城木簡~終焉の地 | 愛唱会ジャーナル

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昨年、「痩人を嗤ふ歌二首」(万葉集 大伴家持、曲 信時潔)を歌ったことを思い出したと書いた2010/6/7() 発想の妙~ウナギの大回遊~学際的発想)が、当時、秋田と家持とは何の関係も無いと思っていた。
 
が、最近、大伴家持に関する面白い説に遭遇した。国語学者の吉田金彦教授が10年前に著した「秋田城木簡に秘めた万葉集大伴家持と笠女郎」に述べられている。
 
発端は更に10年ほど遡る1990年ごろに史跡秋田城で発掘された木簡の半片に読み取られた万葉仮名にある。専門家が苦労して判読した結果を吉田教授が万葉集の薀蓄を傾けて更に判読したのが、
 
 はるなれば いましくかなし
ゆめよ いも はやくいわたさね とりかはし
 
であった。そして、これを大伴家持の未知の和歌の一部であると断定した。
 
その根拠は上掲書に詳しく述べられている。この辺までは国語学者の領分だから、所説の当否は学会の権威たちにお任せしよう。
 
面白いのはそこから更に発展する推理である。教授は、木簡の捨てられていたのが秋田城跡であれば、これに書き付けをした大伴家持がそこにいたと解するのが自然であるという。
 
それは、既知の史実に照らして何ら不自然、矛盾は無いと論考を進める。更に、家持の愛人であった笠女郎の和歌を対比させるのである。
 
老いて陸奥に赴任した家持は基地である多賀城から秋田に出張したのであろうか、運悪くそこで発病し、一生を終えたという結論になる。
 
家持が秋田で没したとするのは、恐らく吉田教授のこの説が初めてではないか。秋田の人たちが「大伴家持終焉の地」を全く宣伝しないのは、吉田説をまゆつば物と看做しているからだろうか。
 
真面目な話、歴史学者などは、端から相手にしていないのだろうか。いずれにしても、観光資源として大いなる可能性を秘める吉田説を活用しない手は無いと思うのだが。
 
イメージ 1なお、我妹子を ( よそ )のみや見む越の海の子難 ( こかた )の海の島ならなくに」(万葉 3166)の「子難 ( こかた )の海」を吉田教授は、八郎潟であり、万葉集中最北の歌であるとも述べている。イメージ 2