D N Aで分かるまで。<31>

 

 この写真を探し出すまでに二日かかりました。

 前に「北緯37°30′007″」と書きました。「柿本稲荷五社大明神」を撮っています。

 

      

   

    

 カメラには、「N37°30.121′」と表示されていますが、表記の仕方が60進法と10進法の違いだけです。Google Earthの表示と変わりません。

 

 もう一つの写真があります。

 

     

 

        

          「栄光の女神像」 猪苗代湖 志田浜(R 49号線)

 

 

 この像の台には石板があり、そこには「栄光の女神 岸信介書」とあります。それにiphoneを密着させて緯度経度を表示してみました。この像の設置経過を何度も調べはしたのですが、未だに判明しません。ここには、神社か何か、大切な「社」などがあり、「猪苗代湖畔駅」かあるいは国道を敷設をするために、移動もしくは廃止することになり(解体清祓)、その代わりに「安倍元首相」の祖父にあたる岸首相にあえて揮毫を依頼したのではないかと考えています。

 

 北緯37度30分の線上に何があるのか、17年前には「徐福東渡」と「平原広沢」を考えていたりしたので、2009年には中国の寧波で開かれた国際フォーラムに参加したりして、司馬遷の「史記」にあたったりもしていました。当時は、「平原広沢」こそ「会津」と言ってみたいほどに、ハマっていたことを今、思い出しています。

 『古』天文学では、日本で最初の近代天文学者「新城新蔵」が会津出身者であったこともあって、「東洋天文学史研究」を読もうと努力したことまで思い出されますが、中国は天文学先進国であり、徐福も「方士」というからには、当然のことながら当時の進んだ天文学を修めてはいただろうと推測していたのです。

 この頃すでに、徐福に不老不死の「仙薬」を求めさせるために、船出させた「始皇帝」が、移動用の「日時計」を持っていたという「記事」に、WEB上で出会ってはいました。しかし、その所在は今なお掴めてはいません。

 ただ、何か文献を見つけようとして、それこそ「検索」を重ねて、プリニウスの「博物誌」にたどり着きました。イタリアのシシリー島カターニャにあった日時計をローマ軍が略奪してローマに運んでいたという記事です。翻訳でしたが、その記事を図書館で見つけ、確認することはできました。略奪後、ローマではその日時計で時刻を見ていたので、百年間はずっとカターニャ時刻のままであったそうです。

 この日時計の記事と「始皇帝」の年代はほぼ一致していました。カターニャ日時計のノーモン(グノモン・日影の指示版)の角度はその都市の位置でもあるので、カターニャの北緯はまさに37度30分でした。

 で、2023年はあの「インディージョーンズ」シリーズがその幕を下ろした年でもあるのですが、なんとそのタイトルが、「インディ・ジョーンズと運命のダイヤル」でした。ダイアルは、「サンダイアル」ではなかったのか、そんなことを考えながら世界史における「37°30′」を見ていたのです。

 

 もしも、始皇帝が徐福東渡の際に「日時計」を手渡していたら、という想像をしていたのです。そうすれば間違いなく「会津」に到着していただろうというシナリオが頭の中では駆け巡っていたのです。

 早速試みに、中国でのこの位置を探したところ、「煙台市」でした。徐福が「斉国」の方士であり、その出身地「徐福村」が、日本の拠出金で見つかったのが1982年であり、2009年当時においても未だ「煙台」の名は出ていなかったはずです。

 

 そんな想像の行き着いた先が、「徐福の墓」であり、「鶴ヶ城」でした。これには、先の新城新蔵が「東洋天文学史研究」において「殷」の年代を特定した論考があります(もちろん鶴ヶ城には触れていませんが)。

 この「殷」は「漢字」文化の基底を成す甲骨文字発祥の中国の古代王朝であり、その皇帝の墳墓がとても壮大で、「地下城郭」が丸ごと墳墓であることに驚きました。その墳墓としての城郭と「鶴」とが結びついたのが『鶴ヶ城』だったのです。

 この倭国にやってきて亡くなった場所が現在の山梨県富士吉田市で旧「都留」郡であり、亡くなった時、八羽の鶴になって飛び去ったという伝承が残されています。

 この城の名称の由来を尋ねると、豊臣秀吉の差配により会津にやってきた蒲生氏郷の幼名「鶴千代」がその由来であるとの答えが返ってきます。または、蒲生の家紋が鶴だとか、あまりしっくりは来ません。

 ただ、この場所は鎌倉時代以前には「松本氏」が居たところであり、「佐原義連」の子孫である「蘆名氏」によって、ついには「追い出された」ところであったことはあまり知られてはいないと思います。

 蒲生氏郷が新たに城を築く際に、見たこともない形に整形された大石が出てきたことが図入りで古記録には残されており、あるいは支石墓のような石が出土して、現在「隠里石」として、<諏方神社>に残されてもいます。

 特に私が注目しているのは「牛が沼」の存在です。鶴ヶ城跡の掘割りのことです。お堀ではなく、「沼」と呼ばれて来ていることが、この場所の古さを語ってくれています。沼にはまると、人は二度と見つからないとも言われてきました。

 

 つまり、蘆名の四家老の一人「松本氏」は、徐福の墓所の墓守人ではなかったのかという推測を今未だ捨て切れないでいるのです。この墓所を守るために松本氏が拠点にしていたのが現在の会津美里町です。

 

 「沼河比売」にはなかなか辿り付けないでいるのですが、もう少しお付き合い下さい。

 

 徐福が仕えていたのは、斉の国の「田」氏です。始皇帝に仕えていた訳ではありません。この「田」一族が、始皇帝から逃げるきるまで、徐福は時間稼ぎをしていた、あるいは逃げ切れなかったに過ぎないと、「田」氏の末裔(直系)に聞いたことがあります。最近のことです。詳しくは書けません(”!”)。

 

 卑弥呼とは400年の隔たりがありますが、無論、「沼河比売」は、それ以前です。