D N Aで分かるまで。<32>
思い出しました。2009年に「徐福国際フォーラム」に参加した後、地元新聞紙に取り上げられ、その記事を読まれた弘前大学の秋月観暎名誉教授から、「徐福東渡」はなかったとの、コメントをもらい、会津に戻っておられた先生のお宅を訪れたことがありました。この「東渡」否定説は、学会では定説となっていたようで、当時徐福ブームの牽引役を果たしておられた、逵(つじ)志保女史ですら学会ではその立場を取らざるを得なかったようです。
ただ、「史記」において司馬遷は徐福と始皇帝については何度も取り上げてはいるので、「東渡」否定説は、私は未だ留保中です。なお、この徐福の日本来着地は今や40ヵ所以上になっているようですが、「会津」という地名はどこにもありません。
ちなみに、山都蕎麦の発祥の地の「宮古」はご存知でしょうか。「水(みず)蕎麦」を食べてみたことはありませんか。ここに行かれれば、飯豊山に因んだ地名であることが分かると思います。村名は「宮古」ですが、地名は「蓬莱」です。
会津若松市でダントツの蕎麦屋は「吉兵衛」ですが、この蕎麦屋さんは「宮古」出身です。このご本家には、「事代主」が祀られていました。大きな飯豊山の絵も飾られてありました。「みやこ」の本来の意味がここには残っている、そんな「音」を感じます。「都」という漢字の意味ではありません。
長編小説「会津士魂」の作者早乙女貢は、ことのほか「吉兵衛」が好きだったようで、会津に来るたびにここを借り切ってはその蕎麦を楽しまれていたようですが、日本ペンクラブの副会長もされておられた彼が、「日本徐福会」の会長をされていたことはあまり知られていませんが、1982年(or.1981)に、史上初の中国「徐福村」の発見に寄与していたことも、今ではほとんど知られてはおりません。
<吉兵衛>にて
驚きがありました。この記事を書くので、間違ってはいけないとの思いから、「煙台」を検索してみたのです。そしたら、なんと「在青島日本国総領事館」のH Pが出てきて、今年3月21日の記事に斉藤総領事が煙台市の「徐福故里」を訪問した際のコメントと写真がH Pに掲載されていたのです。
どうやら、この16年間の間には、「煙台市」が、大きく注目されるようになっていたようです。
ついでに、これは中華人民共和国駐大阪総領事館のH Pに「薛剣中国駐大阪総領事」が今年の8月12日に、「熊野徐福万燈祭」に出席した際の記事が掲載されていたのです。「首相の首」で有名になったあの総領事です。日中両国で、「徐福」詣をする、なんとも「暇な話」ではあるのですが、時に「徐福」は両国にとっては「鬼門」になり得ることをわきまえることが肝要では、と思えてなりません。「徐福」がただ、日中の観光地になったに過ぎません。
とは言え、「「煙台」の地は「北緯37度30分」の地です。そこから「東渡」をしてみましょう。「始皇帝のダイアル」のままに。
「黄海」を渡り、韓国の仁川国際空港のある「永宗島(ヨンジョンド)」、ソウルを流れる「漢江(ハンガン) を通り、日本海側「東海(トンへ)市」、そして日本海。
そこから、能登半島の須須神社(奥宮)から始まって東に、三島神社(新潟県三島郡出雲崎町)、御神楽岳(本名御神楽岳)、蝦夷神社(えぞじんじゃ・会津三島町)、会津若松は「高瀬の大木」、そして「柿本稲荷五社大明神」、大塚山古墳群、八幡神社の「天狗の大杉」、「須佐乃男神社」(笹山原縄文遺跡・北緯37°30′12.437″)、「栄光の女神像」(志田浜)、高司神社(たかつかさ・郡山市 北緯37°30′00.41″ )、杉沢の大杉(二本松市・国内最大級)、がそれぞれ北緯37度30分上に並んでいて、少しそれますが、南相馬市には「星神社」もあり、そして太平洋へと抜けていきます。特別な意味合いを感じるのは、私だけでしょうか。(※高瀬の大木はケヤキですが、そこに隣接する福昌寺は杉に囲まれています)
これらのわが国内全ての場所では、杉の木が立派に育っています。神社再建用にと植えられているだけでなく、それなりの意味合いが込められているようにも感じられます。
しかし、特に気になっているのが、猪苗代湖を東西に挟んでいる「須佐乃男」と「女神」なのです。この須佐乃男神社のある場所は、「笹山原遺跡」という大規模な旧石器から縄文時代にかけての遺跡群のある所であり、縄文時代におけるこの<列島>の特別な位置を示していたのではないかと思わざるを得ません。
男女神が東西に分かれて立っている(?)この「猪苗代」湖という地名に、特別な意味を感じ取ってはいるのです。先に、長野県伊那市の「いな」について考えを巡らしてみたことがあり、あの「保科」の「ほしな」は、この「いな」の後代呼称だということが分かったのです。「悪い星を射落とした」からの呼称ではなく、「いな」という2音文字では通じにくくなっていたものを、分かり易く本来の意味を残しながら「星」「名」としたと。
とすれば、この「いなわしろ」の「いな」も同様の意味を示してはいないだろうかという考えが思い浮かびました。ここでも重要なのは「い」の意味であったので、「伊豆」の「い」に注目し、さらに半島突端の「石廊崎」の「い」を直線で結んでみたのです。ただし、単なる二点間を結ぶ直線ではなく、3点間を結んで描くことのできる直線でした。そこで分かったのが、「帝釈山」であり、「田代山」でした。
「田」(た)は「多」(タ)でもあり、漢字においても甲骨文字では「東西南北」を表しており、まさにその意味において、「方位を知る山」の意味を持っていると推測というか、類推してみたのです。
こうした類推を重ねて、漸くイメージしたのが、突飛ではあるのですが、「星空を映す湖」でした。日中は青空と磐梯山を映す鏡ですが、夜は満天の星を映し出す鏡です。「天鏡湖」と呼ばれる所以です。(民謡会津磐梯山を参照したわけではありません、「〜湖水鏡で化粧する・・・」。)
ここで、登場して欲しいのが「人麻呂」その人なのです。
天漢 安川原 定而神競者磨待無
王子どもを競わせ合いながら待ちわびる人、「織姫」ならぬ「沼河比売」と。
古事記では「沼河比売」であり、先代旧事本紀では「奴奈川比売」と記されています。
「沼」は、しかし「ぬな」とは読みません。「河」は「大河」の「河」になっています。「漢」は「大河」です、それも「水の無い大きな河」の謂であり、「天漢」を「天の河」と読む理由です。<ぬ>を「翡翠」とすることに異論はありませんが、それよりはむしろ翡翠の原石から<勾玉>を生み出すことの方が、大切に考えられたと思います。
この「姫」は、糸魚川市に翡翠を運んでくる「姫川」に関連付けられています。
糸魚川、姫川で思い出しました。
幼少の頃に、祖母と母に連れられて糸魚川市を訪れたことがありました。初めて汽車の食堂車で、銀色の食器に盛られたバナナを食べようとして、母に止められました。なんと、乗り合わせた人がナイフとフォークでバナナを食べていたのを見て止めたのだと後で話してくれました。我が息子なら、間違いなく手で皮を剥いてむしゃぶりつくのが分かっていたからだと。
町の「雁木造り」の通りを、漫画本を読みながら二人について歩いている途中で見失い、迷子になったことも覚えています。バス停で優しいお姉さんに、涙ながらに訴えているところを見つけ出されました。さらには祖父の「現場」であった姫川上流のダムの工事現場に行き、まさにその姫川で溺れかかったことがあったりしました。大変思い出深い場所なのです。
その後社員旅行で、糸魚川市に行き、海岸でおそらくは、<翡翠>が入っているであろう小石を見つけ、そっと持ち帰ったことを思い出します。
もうその文献を見ることは出来ないのですが、半世紀も前に、猪苗代湖畔の縄文遺跡から出土したバカでかい「勾玉」のモノクロ写真を見たことがありました。縄文時代は、とても繁栄していたところと言えると思います。
「奴奈川比売」は、本当に糸魚川や姫川でいいのか、「奴奈川」を「翡翠の川」としてしまっていいのだろうか、未だ肯じ得ないのです。というのも、「奴奈川」は、「天の川」と思いたいという欲求が先に立ってしまうからなのです。
それともう一点、贔屓の引き倒し、あるいは「しり取り」遊びに思われるかもしれませんが、「なぬかわ」についてなのです。「なぬかわ」は「信濃川」の源流と言ったら信じてもらえるでしょうか。古代語の「なぬかわ」が「阿賀川」(or.阿賀野川)を指しているのなら、それは信濃川の上流になり得ます。それ故「し・なぬかわ」と呼ばれていたと。
それこそ日本一長い河川ではあるのですが、最も「越国」、そう「星の国」にふさわしい川である「天の河」になりませんか。そして「安」の川原にいる人こそ「姫」なのでは。織姫の元の名こそ、「ヌ」であり「ナ」ではなかったのでは、と妄想では終わりたくない願望を抑えきれません。
