D N Aで分かるまで。<35>

 

  「会津嶺」というタウン誌の、来月号に向けた記事を書き終わりました。

 

 このブログで書いた「会津家訓十五カ条」についてです。この第一条をよく読めば、我が国の現行憲法の第一条と全く同じだという見解を述べてみました。

 

 そして、これを書く前に 神社の白狐像にあったはずの「嘉四郎」を確認したくて、「柿本稲荷神社」に行って来たのです。

 

  見て下さい。

 

  

 

   <鳥居>から見れば左側の「狐」像の台座には、「世話人 松本○四郎 大正十四年 三月吉日」 と刻まれています。

 

 そしてこの○の文字は、「不明」です。

 

  

 

 

  何やら 氵(さんずい)に「中」と「圭」が合わさった文字で、全く読めません。

 先に述べた、「垂」と「加」を合わせたような「嘉」を書きたかったのかどうか、分かりません。

 

  

 嘉四郎がこの時に生きていたとしても、すでに目は盲目(白内障)になっていたので、確認はできなかったでしょうし、息子の嘉一郎はこの年に亡くなっっています。孫の嘉正は、まだ尋常高等小学校の最終学年といったところ、関心もなかったはず。

 

 余計なことですが、父嘉正は、田中角栄が総理大臣になった時、「尋常小学校卒の男が総理になった」と、とても喜んでいたことを思い出します。

 

 ともあれ、先のブログでも検討した「正之」と「人麻呂」の関係は、どうやら「言挙げ」においてもつながって来そうです。

 

 とある著書の「まえがき」には、

「公は寛文十一年、神道の大家吉川惟足を会津に呼んで日本書紀の講読をさせた。当時の講書は四書五経に限られていたのに神道の書を藩士に聴かせたのは破天荒のことであり、八月十七日にその講義が終ったので、「寄国祝」という題で列席者は和歌を咏じ、正之公の歌は次のようであった。 

 

  あしかびの 芦原国のはじめより 天照らします すめ神の道  

 

 すなわち天照大神以来の皇道を宣揚したのであった」とありました。

 

 神道に歌は欠かせず、天皇には人麻呂がいうように「言挙げ」しなくてはいけなかったということだと思います。

 

 ちなみに「八月十七日」は小輩の誕生日なのです。全く関係はありませんが。

 

 この「家訓一の件(くだり)」の「大君の儀、一心大切」における「大君」については大方の人が将軍を指していると言っています。しかしこれには反論があって、木村定三という人が「大君思想と保科正之」とする書を著しているので、探しました。

 

 「立教大学リポジトリ」において、彼の「三度保科正之の勤王について」を読むことができました。「神道」の解説書と言っていいほどのものでしたし、「正之」の深い想いが、見事に涙腺にまで伝わってくるものと言えるでしょう。

 

 あまり気に止めることはなかったのでずっと忘れていましたが、境内を同じくする「恵日山 西福寺」の寺紋は「三つ葉葵」です。この寺の主棟を飾っていました。

 

 「恵日山」は「慧日寺」のことで「徳一」が創建をし、法相宗でしたが、現在は真言宗(真言宗豊山派)ですが、江戸時代の様子を偲ばせるものが、以前示したことのある厨子(ずし)に入った「胎蔵大日如来」と考えられる仏像です。これこそ「空海」ではなく、「天海」僧正の「真言密教仏」という、他に例を見ないものではないでしょうか。

 

 言って良いかどうか全く分からないのだけれども、これこそ「嘉四郎」が「」から預けられていた「遺品」ではなかったのかと思っているものなのです。そして、そのための西福寺(極楽寺)再建だったと。

 

 

 

 その母とは、DNAを訊ねるしかないのですが、さて。