卑弥呼と会津<9>
借りっぱなしになっていた「会津藩の女たち」(柴 桂子 1994年刊恒文社)を読んだ。「照姫」について、少しでも調べようと思って借り出した本だ。
照姫に関しては、ひと通り読んでみたものの、腑に落ちるほどのものを、まだ読み取ってはない。以前、とても身近に感じたのは、彼女が、「更科そば」とは、深い関係があるということだった。この「更科」という名称は、「信濃」ならぬ「科野(しなの)」の「科」と蕎麦の産地「更級(さらしな)」との組み合わせに、さらにその領主、「保科」の「科」をとって、「更科」蕎麦と銘打ったもので、その起業をバックアップをしたのが、「飯野藩」の保科であり、照姫の実家ということになる。当時のアントレプレナーとなるわけだが、もう一人高遠町に程近い伊那市西箕輪出身のアントレプレナーが日比谷公園にレストランを構えている。「松本楼」がそれ。
大学受験という理由で、初めて上京したときに、銀座界隈を物見遊山してみたことがあった。その時、初めて東京の「蕎麦」を食べた。見て驚いた、白い蕎麦だった。「更科蕎麦」ということを初めて知った。
その後、学ぶことになった学校は神田にあったから、「蕎麦」には不自由したことがない。学生でも手が出せる程度の値段だったし、また、友人たちの中には、「江戸っ子」を自称するの者もいて、そこそこの伝統ある店を教えてはもらったが、流石に麻布の「更科蕎麦」は少しばかり高かったのか、行ったことはなかった。「藪(やぶ)そば」には何度も行った。
この「更科蕎麦」の色の白さが、何に由来するかを知っている人はそう多くはないと思う。「蕎麦」の「純米大吟醸」とも言えるもので、蕎麦の実の芯(胚乳)の部分から挽き出される白い「粉」で、「一番粉(こ)」と言われている。会津ではこれを「はな粉(こ)」という。
「花」ではない、「はな」とは「初め」を意味している。目の前で、その「はな粉」だけで蕎麦を打ってもらい、半日かけて作念入りに作られただし汁で食べた蕎麦の味はいまでも忘れられない。
この「はな粉」と「照」とは、とてもよく結びつく。ここだけの話ではあるけれども、この「更科」に縁の深い麻布と浜松町の蕎麦屋さんを数年前に訪れては見たが、あの味と格段の差はあった。いまでは、十割蕎麦すら見つけ難くはなっているし、さらに「はな粉」蕎麦を見つけるのは至難の技と言えるだろう。
特に、会津の「桐屋」が広めてしまった「高遠蕎麦」は、全くの逆で、罪深いと思われる。何が逆か、味、特に「甘み」と「辛み」が逆転してしまっている。本来の高遠そばは、甘み主体の蕎麦つゆであり、それは「甘み」大根由来。これを「辛み」大根に変えてしまったのが、あの山都の<宮古>出身の蕎麦屋さんだから、なんとも言えない。
この「甘み」こそ、江戸はもちろん平成の東京になってまでも、自ら「蕎麦通」を誇る江戸っ子(東京子)どもを唸らせた天下一品の「隠し味」であったことは、一度は全国に知れ渡ったこともある。
高遠藩主が、「ここの里人は「甘いもの」を味わう機会が少なすぎる」ということで、あえてその甘みを出す大根に目をつけ、そのしぼり汁を蕎麦つゆに入れて食させたという逸話があるのだ。
昔は、りまりまさんのブログにあった「出ケ原」でも食べられていたかも知れない。西会津町での隠れた、「家」でしか食べられない第一級の蕎麦だった。
実は、この本で目に止まったのが、「保科正興」の娘「藤木いち」の若くして書かれた「旅日記」で、元禄十三年(1700年)の年の瀬に京都から九州久留米までの嫁入り日記に書かれていた、船旅のことが、気になったのだ。
十二月二一日から翌年一月一五日まで、二十六日間を要した旅なのだが、京都-大阪-瀬戸内海ルートの船旅だった。『倭人伝』と比べて、江戸時代の船旅が、日数がかっているように見えた。
理由は気候にあるのだろう、それほど天気が大きく影響してくる。幕末に吉田松陰が、寺泊から北海道に渡るのに半年も待たされたという記録が残っている。
つまり、天候次第では旅の様相は根本から変わってくる。『倭人伝』には天候のことは書かれていない。基本、日本海側は冬は無理、ということだろう。
でもこの第一章で、会津まで、魏の使者は辿りつけたことになる。


