D N Aで分かるまで。<18>

 

 明日から会津祭りだそうだ。会津祭りには、もう何年も行っていない。その祭りで会うことになっていた作家の早乙女貢氏が藩公行列の最中に落馬したとの報を受けて以来だから、もう18年前のことになる。

 氏は、当時まだ日本徐福会の会長をなさっていて、会津でも徐福会を立ち上げたことの報告をする予定であった。会長は会津復古会の大肝煎をなさっていた菓子匠・会津葵の五十嵐大祐さんで、当方は事務局長兼副会長だったような。

 翌年には、中国で開かれた「慈渓徐福国際フォーラム」に参加した。神奈川徐福研究会に加えてもらって行くことができた。始皇帝が持っていたとされる「携帯用日時計」が、中国製ではなく、砂漠の商隊の運んできたものであれば、徐福はそれを持たされ「東渡」し、「平原広沢」を求めたのなら、間違いなく「会津」に来てしまうということを立証してみたくて「西渡」したのだが、見つけられなかった。

     

           

 

 

 鶴ヶ城と「徐福」との関係を探ってもいたので、「文明館」は立地条件が見事に揃った「前線基地」でもあった。白川静の影響とは思うけれど、「殷」の「墓」が、巨大な地下城郭であったことに注目して、鶴ヶ城の下には地下城郭が眠っているのではとの推測のもと、会長と二人だけでロマンを楽しんでいた。

 

 初めてのフィリピン観光で何故か華僑の人々の墓場を案内されたことがある。キョンシードラマ(中国お化け映画)が流行っていた頃であった。印象的だったのは「墓場」は「町」だったことで、墓が門構えのある鉄筋コンクリート製の5階建ほどもある住居で、そこには墓守人が家族で住んでおり、何軒もの「墓」があり、高級住宅街になっていた。

 

 また、会津の蘆名時代を記した「会津四家合考」を読んだ時に同姓の「松本」が謀反を繰り返していたことが気になっていて、その原因を考えてみたことがあって、その結論が、もともとの鶴ヶ城(黒川城)の城主が松本であり、蘆名に追い出されたことが大きな要因ではと思い始めたことと、そもそもこの「松本」はこの「城」すなわち「墓」の「墓守人」だったのでは、という推論を立ててみることになった。

 

 蒲生氏郷がこの場所の築城した際に「ドルメン」(支石墓)や屏風岩などが出てきてしまったことや、60年前の天守閣復元の前の発掘調査によって、古墳が確認されてはいたことからは(再調査必須)、ある程度の推測は可能ではあるけれども、まだ確証に足るほどのデータ化がなされていない。

 

 せめて会津総鎮守の「諏方神社」の「隠里石」の徹底分析くらいしてみて欲しいとは思うのだ。

 

      

 

 「八重の桜」ではないが、一度は綾瀬はるかに触れてみたい、最初に目に止まったT Vドラマの好印象がまだ続いている。