D N Aで分かるまで。<17>

 

  この「伊奈婆廼万都(いなばのまつ)」ですが、会津藩の西軍への降伏後に藩主容保が東京の因州藩(鳥取藩)の藩主屋敷に幽閉された時に、そこで催された歌会で詠われた歌を集めて歌集としてまとめられ、このように題されたとあります

 

                                

 

      

「万都(まつ)」は政府の最終判断を「待つ」という意味が込められていたのでしょうか。「敗軍の将」ですから、たとえ切腹や打ち首でも抗し切れない立場だったでしょう。

 百人一首には「たち別れ いなばの山の 峰に生ふる まつとし聞かば 今帰り来む」という在原行平の歌があり、それに懸かってもいるのだと思います。行平もまた「幽閉」というか「蟄居」させられたことがあったようです。

    

 何首か彼の詠んだ歌を読みましたが、行儀の良すぎる歌ばかりで、そこを深読みすることがほとんど出来ませんでした。「相生の松」ほどに感情が伝わっては来ないのです。自らの感情や想念を抑え込みながら、時を過ごす経験などないので分からないのですが、彼は確かに、残された家臣のことを考えれば考えるほど、自らを律し切らねばならないという思いは日々強まっていたのだろうと思います。

 

 「不思議の宮裏通り」の「海人の柿本人麻呂」を読ませて頂いた。

   そこに書かれていた島根県益田市H Pが気になったので、その「柿本人麿とは」を読んだところ、「益田市の戸田で育った」と書かれていて、唖然としました。これまでのイメージからは全くと言っていいほどかけ離れていたからです。奈良県から離れたことは一度もなかったから、驚きました。ですが、これ以前に西山恒之著の「新説日本古代史研究」を読み、全くと言っていいほど新たな視点に

触れてはいたので、どちらも興味深く読むことは出来ました。

 しかし、これまで読んだ「人麻呂」のどれをとっても、一定の重さで「女性(にょしょう)を取り上げたものはありません。「言挙げ」はもともと男女の「呼び合い」から始まっているもので、それを失ったものは歌の「形骸」でしかないと思っています。人麻呂もそこを起点にしているはずなのにです。

 

 昔喜界島に行ったことがあります。そこの民話に「奄美大島の男たちが喜界の浜にやってくると、そこに色とりどりの花緒で飾られた草履が並べられている、その一つを選んでそれを履いて前に進むとその先には、同じ色模様の布を持った娘が立っている」というものがありました。

 

 泥染の先にある、あのカラフルな色模様は格別です。サンゴ礁が作り出すつむぎの色と言っていいでしょう。色をつぐむも歌をつぐむも同じような「こころね」が必要なのでしょう。

 そんなことを容保にも求めたいのですが。