D N Aで分かるまで。<15>

 

   全く確証というものが持てないでいるのですが、少しばかり「因幡」について触れてみようと思うのです。柿本人麻呂が、「因幡」とどのように関連するのか、二、三の文献(土方賀陽、藤村由加、松岡正剛等)にあたっただけでは、明確な根拠を得ることは難しいけれども、その文献のいずれもが「柿本」一族は大陸からの渡来人であったとしていて、もともとは「和邇」、「和珥」、「王仁」一族と同族とされています。古事記には、隠岐島から「稲羽」の浜に渡ろうとした白兎が「鰐」(わに)を騙し、それが怒りを買って「裸菟」(素兎・裸のうさぎ)にされた話が載っています。 

 先のブログ<9>では、なぜか「因幡」には触れていたのですね。不思議でなりません。容保の「伊奈婆廼万都」歌集があったことにです。まだ読んではいません。現在手元のにあるのは、図書館からお借りできた「会津会々報」第1号から第4号までです。ここに付録として「芳山公御歌」があります。

  各号には150から160首ほど納められています。

        

                                   

                                                                  会津会々報

 

  

 照姫や容保から、「人麻呂」との「何か」が見つけ出せればいいと思っているのですが、徒労に終わるかもしれません。ただ、この会報には容保が明治8年頃、名古屋(尾張)徳川家を「継いでほしい」との要請があって、それを固辞したことを記した山川健次郎の話や、藩主正之が天候の不順に農作物の出来に不安を待ち、過去の例を向井由重に尋ねたところ、天文年間(1532から1555年)に会津にあった同じような天文現象のことが「高田旧記」には書かれてあることを答えると、会津一円から気象記録を集めさせたことなど、興味深い記事があり、15号まであるこの会報を読んではおこうと思うようになっています。

 

 どうにかして容保と人麻呂との関連性を見出そうと思っていたのですが、なかなか見出せなくていた時に、「東(ひむがし)の野(かぎろひ)に炎の立つ見えてかへり見すれば月傾きぬ」が2、3年ぶりに気になり出して、もう一度確認しようとして、松岡正剛の「千夜千冊」の「柿本人麻呂」(橋本達雄編)の評論を読んでみました。以前受けていたこの歌の印象とは違っていましたが、より理解し易い解釈になっていました。

 

 彼はまた、次の二首も上げていました。

 

 大君は神にしませば天雲(あまぐも)の雷(いかづち)の上に廬(いほ)りせるかも

 

 大君は神にしませば真木(まき)の立つ荒山中(あらやまなか)に海をなすかも

 

いずれも「天皇」を「言挙げ」する歌です。

 

「東野」も、彼(松岡)の解釈ではその「言挙げ」歌になっていました。さらに「人麻呂」の次のような歌も上げてあります。

 

 蘆原の 瑞穂の国は 神ながら 言挙げせぬ国 しかれども 言挙げぞ吾(あ)がする 事

(こと)幸(さき)く ま幸(さき)くませと つつみなく 幸(さき)くいまさば 荒磯波 

 ありても見むと 百重波(ももへなみ) 千重波(ちへなみ)にしき 言挙げす 吾(あれ)

 は 言挙げす 吾(あれ)は

 

  反歌: 敷島の大和の国は言霊(ことだま)のたすくる国ぞ幸くありこそ

 

  素朴な感想ですが、現代ならばさしずめ「皇室専属写真家」と云えそうな気がしてきます。

 

 松岡正剛は<人麻呂の全身に憑依していただろう大王(おおきみ)なるものの背景を追い(つまり天皇をセンタリングしようとしてきた歴史を追い>と書いています。そしてなお「それは晩年の人麻呂が遣外使節とかかわったときの歌で、相手は遣唐使ではなく遣新羅使だった」とも。

 

 まるで正之の朝鮮通信使との接遇体験ののちの「会津家訓(かきん)」を定めたときの状況とよく似ています。

 会津藩主容保には、神君正之の訓示通りに役目を果たしたという、何よりも尊い達成感があったと思います。天皇の最も身近にいた「藩」の藩主として。

 容保は「京都守護」という役目を通じて、人麻呂と同じ立場に立っていたことを自覚していたのかもしれないという、そのような「思い」がしてなりなりません。

 

 つまりは嘉四郎の「柿本稲荷」は、「容保」の「言挙げ」神社なのではという妄想になりつつあるのです。正之の神社が「土津(はにつ)神社ならば、容保のそれは「忠誠(まさね)」神社でしょうか。「忠誠」は彼の神号です。

       

             

                             旧若松県地図