DNA探究において、どこまで遡れるかは分からないにしても、戸籍謄本上はどうしても曽祖父「嘉四郎」を辿らなければならなかったのです。彼は、母の話では戊辰戦争時は十歳で、誰もいなくなった武家屋敷に一人残されており、そこに白河から迎えの者が来て、一緒に来て欲しいと言われたそうです。「一日待って欲しい」と言い、翌日には家に残っていたお金を集めて、彼らに旅銀として「これで良いですか?」と差し出し、また彼の身の回りの世話をしてくれた仲間 (ちゅうげん) にもお金を渡して、屋敷を後に、白河に向かったと母は語ってくれたことがありました。

 

 

会津若松裁判所 (前内藤家邸―白露庭)

 

 この話を聞く以前は、父の、子供の問いにただ「家は新潟から来た」といういかにも素っ気無い言葉しかなく、以降は手当たり次第というか、妄想を膨らまして、会津藩とも縁の深い長岡藩士の「河井継之助」を追いかけてはいたのです。たまたま彼の義兄に「梛野(なぎの)嘉兵衛」がいたからなのでしょう。

もちろん確証はないのですが、まだ十歳の彼を迎えにやって来た白河の人というのは「常盤屋」の手の者のように思えてなりません。この常盤屋で印象に残っているのは、常盤屋は白河藩の御用商人であったことと、戊辰戦争の際。薩摩藩士に「金を貸せ」と言われ断った老主人が斬殺(暗殺)されたと言う事件です。

それと嘉四郎の結婚相手が、常盤屋の次女で嫁入りの際にはお輿に乗り懐刀を帯に差して

来たと母が自慢げに語っていたこともあって、調べたこともありましたが曽祖父のことまでは分かりませんでした。

 

常盤屋」にはやはり妄想をかき立てられます。この妄想では「常盤屋」は<鬼一法眼>を代々継いできたようなそんな思いがしてしまうのです。「義経」が兵法書「虎の巻」を盗み出させた法眼の娘「皆鶴姫」の話は、歌舞伎などでも取り上げられ有名ですが、それよりも「義経」が庇護されていた奥州藤原の秀衡の財政力の基盤をなした「金」の、その流通(売買)において重要な役割を担っていた「金売吉次兄弟」の墓がこの白河にはあり、さらに「吉次」の墓が会津にはあって、なんと「皆鶴姫」の墓さえも会津には残されていることが不思議でならないからです。