17年前に上梓した「デルタ・ストリングス(結いの考古学)」について、amebaメンバーのお二人から書評を頂いていたので、その身に余る評価への感謝を込めて、このブログを借り、長年胸にあたためてきていることをここで披露して謝辞にかえたいと思う。
此花咲耶姫異譚
ずっと疑問に思ってきたことがある。「古事記」(和銅五年 712年)に記された「木花之佐久夜毘賣(このはなさくやひめ」の説話への素朴な疑問である。
「夜に花が咲く」というような意味合いの名が、何に由来したものなのか不思議でならなかった。古事記のどこを探しても見つからず、「邇邇藝能命(ににぎのみこと)」との初めての同衾で子を孕んで、さらに出産までしてしまうという強引な創作ぶりが理解の範囲を超えていたからだ。
しかし、新築なった会津若松市の図書館(2011年)で会津の民俗資料を探していた時、会津若松市大戸町の「闇川(くらがわ)」地区に伝えられてきた伝承を見つけ、初めて謎が解けた思いがした。
その伝承は、会津の大戸岳と飯豊山にまつわる伝承で、闇川の娘を「飯豊山に嫁に出す」際のある約束事についての説話である。姉妹がいる、そのどちらかを嫁に出そうとするが、それを決めるのに一晩おいて、「明朝、姉妹のどちらかのお腹の上に花が咲いた方をお嫁に出す」、という説話が残されていたのだった。
木花之佐久夜毘賣そのもののことだ、これ以上の木花之佐久夜毘賣はいない、そう思った。
確かに「お腹の上に花が咲く」という意味は、男性には理解しがたい言葉のように受け取れるが、初めて女性としての証を持ったことの比喩だとすれば、それは至極自然のことではあり、修辞句としても納得できる優しさがそこには込められている。
さらにこの説話には、先に目を覚ました妹が姉のお腹の上に咲いている花を見つけ、素早く自分のお腹の上にのせてしまったという事件が語られている。お嫁に行ったのは妹となった。
これと同じ伝承が飯豊登山口の<山都 一の木>村にも残されていることは近年になって知ったのだが、比較するわけではないけれど、「闇川(くらがわ)」の方がより原型を留めているように思える。というのも、この地名には、縄文時代の人々の生活文化が反映しているように見えるからなのだ。
<闇(くら)>が<闇(やみ)>を意味するものではなく、山と山との<鞍部>を意味する<鞍(くら)>であれば、乗鞍岳を思い出すまでもなく、山々の自然の恵みの採取を主体とする生活を容易に思い描くことができるからだ。まさに、富山県氷見市の<鞍川(くらがわ)>縄文遺跡がそのことを物語ってくれる。
さらにこの説話には、大戸岳<闇川>村と飯豊山<山都>村との「婚姻」を成り立たせている生活圏、つまり共同体としてのネットワークが確立していることが見て取れる。
会津の人にとっては身近な「新編会津風土記」の模範ともいえる奈良時代に編まれた各国風土記の中の一つ、「出雲国風土記」をみると、<国引き>によってパッチワークのようにして出雲という地域が出来上がって行った様子が描かれていることがわかる。
ただ、それは具体的に地理上の区域を不動産のように見立てたものではなく、はじめは小さな集団が、徐々に生活文化を共有する大きな集団になっていったことを表現しているに過ぎない。
まず言語が共有され、生活圏が共有され、生活の糧の分配方法も共有されて行く過程が、いわば国づくりであったことになる。その共有過程において重視されたのが、「婚姻」ということになる。
そして当然のことながら、この官製風土記にとっては「婚姻」は、その編纂目的から見ては「埒外」のことであったろう。しかし、国家の形成にあっては、欠くべからざる要件こそ「婚姻」なのだ。「ひとつくに」の「紐帯」と言っていい。
風土記には「木花之佐久夜毘賣」は出てこない。もちろん「邇邇藝能命(ににぎのみこと)」もだが、まさに上記の理由による。
古事記の「木花之佐久夜毘賣」」のオリジナルは別にあったという他ないだろう。そのオリジナルがあったのは、出雲にとっては極めて厄介な、目の上のたんこぶの「越国」「古四国」あるいは「やまと国」ではなかったのか、そんな思いがする。
それは古事記の「須佐能袁命(すさのおのみこと)」と、あの「高志之八俣遠呂智(こしのやまたののおろち)」で有名な、「久志伊奈太美等与麻奴良比売命(くしいなたみとよまぬらひめのみこと)」との婚姻説話を受けての創出物語(出雲建国神話)でもあると感じられるからだ。
「日本書紀」では「須佐男(すさのお)」は、「新羅」からやってきたことになっているから、同族<辛国(からくに)縁故ー伊那民(いなたみ)>の娘と結ばれるという解釈もできよう。伊那はまさに韓国(からくに)からの渡来人の多い地域であった。
「久志伊奈太美等与麻奴良比売命」は、「櫛名田比売」や「奇稲田姫」ではない。<くし・いな・たみ・とよ・まぬら・ひめ・の・みこと>と読むべきものと思われる。<くし・いなた>を<櫛>や<稲田>と漢字を充てたのでは意味をなさない。稗田阿礼はそんなことは微塵も想定してはいないはず。
<奇し、伊那民、豊、まぬら、姫の命>ではないのかと思えるが「まぬら」は現代の韓国語では平易に使われている<家内>とか<つれあい>とか<伴侶>を意味し、古代朝鮮語では貴人(王族、官吏)を意味していたと言われている。
伊弉諾・伊弉冊神話由来の「湯津津間櫛(斉つ爪櫛)」を頭髪(みずら)につけ、酔い潰れた八俣大蛇を倒すことになるのだが、それは何よりも、結婚すなわち「うけい(誓約)」に必要な試練であったことになる。特に、須佐男は出雲共同体(コミューン)にとっては異邦人だ、試練も凄まじいものになる。
そしてその凄まじさは、越(こし)の「大蛇(おろち)」退治に喩えられてはいるが、むしろ「越国」あるいは「やまと国」への敵対行動(独立戦)ではなかったと思われる。「八俣(ヤマタ)」ならぬ「ヤマトのオロチ退治」または「やまと大戦」ではなかったか、そんな思いを禁じ得ない。そうした背景の中では、「木花之佐久夜毘賣」はむしろタブーの説話であっただろう。
オリジナルは「山都」にあった、と想像をたくましくして下さる方こそ、「木花之佐久夜毘賣」にはふさわしい。