卑弥呼と会津<12>
遠藤君がどうであったかは知らないけれども、記憶に残っている「海」につて書いてみよう。
海の上にいたことになってはいるのだが、思い出すことはできない。なぜなら、まだ中国(中華人民共和国)にはなっていない「満洲国」で生まれたばかりの乳児だったからで、北京と瀋陽の間にある交通の要衝であった葫芦島(ころとう)の港から「雪風」に乗せられて、黄海を渡って帰国したからだ。もう確認する術はないけれども。
母から聞いていたことと言えば、まるで首に下げた遺骨箱のようにして運ばれてきたのだという。背負う(おんぶする)わけにはいかなかったそうだ。混雑する列車内などでは圧死する危険があったからだそうだ。
戻ってきたのは会津若松市だから、初めて海を見たのは、十才にはなっていたように思う。始めて見た海は、新潟の海だった。まだ泳ぎなどできなかったが(この頃まだ学校にプールはありません)、祖父が白い肌着とステテコ姿になって、背中に自分を載せ、遠くにあった船まで泳いで行ってくれた。夜だったが、港に停泊している船の灯のもと、まさにスイスイと泳いる祖父の背中に馬乗りに乗って、、、、その時の感覚は未だしっかりと残っている。
後に知ったことだが、祖父は、兵庫県神崎郡福崎町出身で姫路とは目と鼻の先で、家業の酒造店が潰れたあとは、客船の船員を務めていたようだったから、<海の民>を地でいっていたと思われる。
神崎郡福崎町は、柳田國男の出生地であり一度は訪れては見たい場所なのだが、姫路から真っ直ぐ城崎に向かった記憶しかなく、ただ通り過ぎてはいたのかも知れない。姫路城を見、書写山に登り、弁慶が僧となった円教寺の「弁慶机」を見た。祖父が亡くなって翌月のことだった。母の勧めによる初めての関西一人旅ではあった。城崎は志賀直哉の小説「城の崎にて」を思い出していたからだが、いかにも東北人らしく、雪に埋もれていた「城崎」の旅館に泊めてもらっていながらも、翌日に鳥取の砂丘を見るまでは、ずっと写真通りの「砂丘」が見えるものと思っていた。でも実際の景色は、完全なる雪景色であり、雪原を馬とラクダが歩いていた。砂は、一粒も見えなかった。
日本海の荒々しい波しぶきが、「山の民」を迎えてくれた。よほど落胆したのだろう、帰り道は全くと言っていいほど覚えていない。

