小学生の頃、言われた。透かし文字とか仕込んであるのかと、頁をライトに当てて見た。ホントに難しいことを教えられたと思う。禅問答みたいな。
 小学生の頃、森鴎外、志賀直哉の文庫本を渡され、
「行間を読みなさい」
小学生の僕は悩んだ。悩み続けた。行間って何?
 今だって、森鴎外の文章の行間を読めと言われても、
「行間…」
遠くに目がいってしまう。考えていると、心の中心に積年の恨みが集ってきて、じゃあ積極的に行間を読めたからといって何かいいことがあるのか、と開き直り、すっかり嫌疑的になっている。
 ある文章を読む。明晰で滞りがない。美しい。そして違う世界につれていかれる。千尋の光景が涌きたつ。情景が甦る、いや想像によるものか。読み終わり、いつもの世界に帰ると、なにか大切なものが心に残っている。そういう小説を読んだことがあるし、大切にしている。
 逆説的だが書くようになってわかったこともある。書くときは、筆がすべる。パソコンを使っても誤字脱字だらけで、誤用は日常茶飯事だ。間違えた認識を書いてしまうこともあるし、その上、だいたい書き過ぎ。饒舌ならまだましで、同じことを繰り返したり、余計な説明が多い。だから推敲は、とにかく『トル』作業が多いのです。もう、トルトルトルトル!
 出来上がりの文章は、あくまで僕の場合ですが、初稿よりも簡潔になっている。推敲の段階で、言い足りなくて文章を加えるというのは、まずない。誰かに読んでいただくときに、消失した文章…行間?を推察して欲しいかというと……やめてくださいませ。
 論理的で明晰な文章か、美しさはあるか、余計なこと書いていないか、楽しんでもらえるか、少しは実用性があるか、あるいは読んでくださる方に連想してもらえるか、と気になる。 
 行間ある文章が書けないからわからないのか? 
 小学生から成長しておらず本が読めないのか? 
 文豪と呼ばれる作家の文章には、秘めやかな物語が行間に埋もれているということなのか。大人になっても、書くようになっても、理解できない。なんなんだ、行間。