談山神社(桜井市) | 神社ぢからと寺ごころ

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寺社を通じて教わった気づきを綴ってまいります。
頂いた御朱印も順次公開していきます。
磐座とか陰陽石を探すほうが多くなってきてましたが、最近では街中の小社ばかり回ってる気がします。

皆さんご存知のように、現在の寺社は神仏習合と分離を経ているとこが大半です。
 
神仏分離に際して、神社からは仏教色を、寺からは神社色を排除するといった明治政府の雑は政策により、今の寺社の礎ができたわけです。
 
神社として継続するのか、寺院として継続するのか、政府に逆らい保護を拒絶してでも己らの信仰を守るかの、だいたい三択だったのではないかと思います。
 
規模の大きな所は、神仏習合時には僧侶が祭祀を行っていたとこが多く、それらが神社になるには、僧侶が還俗して神職になったり、その逆もあったわけです。
 
還俗という言葉自体が、神職よりも僧侶のほうが汚れてないようなイメージですので、嫌いな言葉なのですが、今日はそれについては突き詰めすに進めます。
 
今日ご紹介するのは談山神社なのですが、ネットで写真なんか見てますと、ここ神社だけとお寺みたいやなって感想でした。
 
調べてみましたら、明治以前は妙楽寺という寺院だったようです。
 
明治維新になり、国家神道成立に向けて国学者を中心に原理主義となり、政府の廃仏毀釈の令厳しく、多武峰妙楽寺3000石の寺領もとりあげられ、42坊の子院すべて廃寺となり、主なる佛堂・聖霊院・護国院・講堂・常行三昧堂・東大門等の佛像は撤去され、談山神社と改号されたということらしいです。
 
個人の感想としては、室生寺とか根来寺と似た雰囲気に感じました。
 
御朱印帳を拝観受付に預けて境内の散策開始です。

 
とりあえずは真っすぐ石段上がってみましょう。
 
夫婦杉
 
たしかに夫婦ですね。
 
恋の道を通って恋神社のむすびの岩座に向かいます。
 
恋神社は通称で、正式には摂社の東殿です。
 
その前に、厄割り改新玉
厄落としと開運の御利益があるようで、祈願手順があるみたいでしたけど、僕はこの手のはやらないので読んでません。
 
こちらは、むすびの岩座。
こちらは縁結びだろうね。
 
如意輪観音堂
 
春日神社
 
談山神社本殿
 
正面からも見えました。
 
撮影とSNS投稿OKです。
 
有名な十三重塔
 
権殿
 
もひとつ磐座があるみたいでしたので、授与所で聞いてこちらへ。
 
あれですね。
 
近くに行けないのでズームします。
社殿は龗神社、通称龍神社
 
磐座の説明
どれが磐座なのかわかりにくかったのですが、滝のとこの積み石かなと思います。
 
境内社回ります。
 
末社・比叡神社
寛永四年造営の一間社流造、千鳥破風付の檜皮葺の社です。
 
元は明日香の大原にあった大原宮で、ここに移築され、明治維新までは山王宮と呼ばれていたようです。
 
 
末社・稲荷神社
 
末社・山神神社
 
杉山神社と神明神社
 
閼伽井屋
重要文化財で、この中の井戸は摩尼法井と呼ばれ、昔、 定慧和尚が法華経を講じた時 、龍王の出現があったと伝えられています。
 
定慧の父は中臣鎌足で、出家前の俗名は中臣真人といい、弟が藤原不比等です。
 
 
総社拝殿
 
寿老人
 
総社本殿
 
神廟拝所
 
中は入りますと色々祀られてました。
 
藤原鎌足像
談山神社の御祭神です。

飛鳥の法興寺で行われた蹴鞠会において出会った中大兄皇子と中臣鎌子が、藤の花の盛りの頃、本殿裏山で極秘の談合をされました。

この談合により、皇極天皇4年飛鳥板蓋宮で蘇我入鹿を討ち、中央統一国家及び文治政治の完成という、所謂大化の改新の序章というわけです。

多武峰はこの後、談峯・談い山・談所が森と呼ばれるようになり大化改新設合の地の伝承が残りました。

現在の社号の談山神社もここからきています。
 
僕が子供の頃は大化の改新のヒーローとして中大兄皇子と中臣鎌足は人気があったのですが、最近は見方が変わってきて、政権転覆のクーデターであるというのが通説になってきてます。

さらに、そのクーデターの首謀者が鎌足で、中大兄皇子はそれにそそのかそれ担ぎ上げられたんじゃないかって思えてきてます。

談峰大権現
こちらがおそらく多武峰本来の神たと思います。

狛犬 
 
これも古いね。
 
神仏霊場巡拝の道の御朱印帳にいただきました。
 
紅葉の形にくり抜かれた当て紙がええ感じ。
談山神社は紅葉の名所ですが、シーズンになると混むので、紅葉する前に行ったわけです。