石のタライ(加古川市) | 神社ぢからと寺ごころ

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寺社を通じて教わった気づきを綴ってまいります。
頂いた御朱印も順次公開していきます。
磐座とか陰陽石を探すほうが多くなってきてましたが、最近では街中の小社ばかり回ってる気がします。

さて、この日のメインイベントです。
 
今回のテーマはヤマトタケルだったんですよ。
 
ヤマトタケルといえば伊吹山とか建部大社とか大鳥大社が関西だと有名ですが、あえてこちらで。
 
なんでヤマトタケルなのかと言うと替歌やりたかったからってのがありましたので、本日のブログは替歌からスタートします。
 
ヤマトタケルといえば大半の方は女装して熊襲を討ったことばかりが有名になってますが、ヤマトタケルの物語で一番盛り上がるのは東国遠征ですよね。
 
てことで、ユーミンの中央フリーウェイの替歌で、東国遠征♪
 
〽東国遠征〜
熊襲を討ち凱旋
倭に帰ってみれば
すぐさまに東国制圧の勅命下る
〽東国遠征
片手で持つ御剣 片手で肩を抱いて
愛してるって 言ってもきこえない
海が荒れてて
〽神鎮め 弟橘姫が
入水して これが走水の由来
 
〽東国遠征
騙されて火の海
焼津の地名の由来
石打って 剣で草薙ぐ
剣銘の由来
〽東国遠征
荒ぶる神 退治に
剣持たず余裕で
伊吹山 道を塞いでる大猪
〽無視したら それが山神だった
怒りにふれ 足が三重になったみたい
 
〽東国遠征
倭は国の真秀ろば たたなづく青垣
山籠れる 倭しうるはし
故郷を思う
〽故郷に続く 故郷に続く
 
とりあえず自画自賛しときまして、本題にいきます。
 
 

 
たしかこの辺りのはずなんだけどなぁ。
 
ありました。
住宅の挟まれてあるとは聞いてたけど、ほんまに間にありました。
 
これ知らないと見過ごすよね。

ヤマトタケルの若い頃は小碓という名で、双子(諸説あり)の兄は大碓という名でした。

大きなほうで産湯を使ったのが大碓命、小さなほうは小碓命のです。
もしかしたら、大臼、小臼なのかも知れません。
 
漢字なんてもののない時代のことなので、現代の字を当てるのもどうかと思いますけどね。
 
でもね、小碓の読み方って『おうす』なんですよね。

『おおうす』と『おうす』、こんな紛らわしい名を兄弟につけますかね?

漢字を当ててからの後付けのような気もせんでもないです。

日岡神社のものはレプリカでしたが、こちらが本物の石のタライです。
本当に産湯を使った石のタライかどうかなんて別にどうでもいいんですよ。

そのように伝わってきたことを尊重するのです。
 
ふたつセットで骨蔵だったのではないかという研究もあるようですが、これは石のタライという名であることは間違いない事実です。
ここから25mほど離れたとこにあったようですが、なぜここに移した?

いっそのこと日岡神社に移せばよかったのに。

なんか大人の事情がありそうです。

こちらが大きいほうですが、浅いんですよ。 
 
小さいほうが容量あるんです。
これが何であったかって議論よりも、どっちが大きいやつ?って議論のほうが面白いです。

大きな字で『小さい』と書いたのと、小さな字で『大きい』と書いたのとでは、どっちが大きい?ってやつ。

赤い字で『青い』と書いたのと、青い字で『赤い』と書いたのではどっちが赤い?

ヨボヨボのおじいさんが、キリッとしたドーベルマンの散歩してた場合、どっちが連れられてる?

なんて子供の頃のネタを思い出しました。

石のタライはこのくらいにして別件。

大己貴尊と神武天皇と大和武尊の記紀においての共通点ってわかりますか?
 
この3人は、主役のコーナーがあって長々語られるんですよ。
 
神武天皇は、初代天皇として詳しく述べる必要があったとしても、大己貴は臣下ですし、日本武尊は王位次いでませんよね。
 
なぜ長々詳しく語らければならなかったのか。
 
それは正当性を記したかったのだと思います。
 
神武天皇は日向から大和入りして初代天皇となったわけですが、東征が正当であったと皆に伝えなければならなかったため、経緯を詳しく記す必要があった。
 
もし、天皇家の祖先が一方的な侵略をしていたとなってはいかんのですよ。
 
次に大己貴は後に大国主と呼ばれますが、出雲から国造りをはじめ、播磨を経ていわゆる葦原中国全般を治めるまでになりました。
 
そして国譲りにおいて葦原中国を天孫に返し、元の出雲の帰るわけですが、これも慎重に書かないと天孫の土地の横取りととらえられかねません。
 
大己貴はあくまでも臣下であり、所有権を持っていないということを明らかにしないといけなかった。
 
最後のヤマトタケルは、九州、山陰、東海、東北と遠征し、それらを帰順させていますよね。
 
大和に帰順しているのですが、それぞれの国の人々は景行天皇には会ったことも無く、その名すらも知らない人が多数だったと思われます。
 
あくまでもヤマトタケルに帰順した状態。
 
なので、あくまでもヤマトタケルは景行天皇の命によって遠征したということを広く認識させる必要があったのではないかと考えます。
 
こういうこと書くと、大和朝廷の陰謀と改ざんとかって熱くなる方おりますが、歴史は勝者が作るので当たり前のこと。

大和朝廷に都合よく書かれてて当たり前なんです。

しかしながら、武烈天皇の狂気じみた趣向を記してる部分を鑑みれば、その後の歴史書よりは公平性があるのかも知れませんよ。

メイン終わってしまったので、後はいつもの感じの街中ブログで加古川市内をご紹介していきます。