田能遺跡(尼崎市) | 神社ぢからと寺ごころ

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寺社を通じて教わった気づきを綴ってまいります。
頂いた御朱印も順次公開していきます。
磐座とか陰陽石を探すほうが多くなってきてましたが、最近では街中の小社ばかり回ってる気がします。

遺跡って実際行ってみるとガッカリすることが多い尼津彦です。
 
皆様おはようございます。
 
いきなり読む気をうせさせるような冒頭ですいません。
 
正直な感想です。
 
 
施設名称は田能資料館です。

 
小さい公園程度の敷地なので見学時間は短いです。
 
ここは小学校の社会見学で来て以来なので、なにかと美化してるとこがありました。
 
円形平地住居
 
入ってみます。
 
囲炉裏かな。
 
天井部
 
方形竪穴住居
 
こちらも入ってみます。
 
天井部
 
まあこんなもんです。
 
千木がありますね。
 
高床倉庫
 
屋根
 
この千木は建築用ではなく装飾用ですね。
 
田能遺跡の概要については以下の通りです。
 
昭和40年9月、尼崎市田能(たの)字中ノ坪(現在の田能6丁目)一帯で行われていた尼崎・伊丹・西宮三市共同による工業用水園田配水場の建設工事中に大量の弥生土器が発見されたことから、この場所に大規模な弥生時代の遺跡があると推定され、すぐさま協議が行われました。
 しかし、当時の日本は高度経済成長の真っ只中で、配水場建設は阪神工業地帯に欠かすことのできない一大プロジェクトだったため、また、当時の尼崎市は工業用水としての地下水の使用による地盤沈下に悩まされていたため、工事は緊急性が高いものでした。
 それらの事情から、工事を中断して発掘調査を行うことはできず、工事車両に追われながらの緊急調査が10月から開始されました。
 調査は、「ブルドーザーに追い立てられながら‥‥」「土器がバリバリと壊されていく」などすさまじい中で、寝る間も惜しんで行われました。
 
尼崎市ホームページより
 
 
開発を途中で中止できなかったため、現在のように小範囲しか残せなかったのですが、実際には海までの一帯がすべて遺跡であったと推測されていて、登呂遺跡より広範囲だったとの見解もあります。