感覚優先ゆえに悩んできた一つ

 自分の感想を文章にするのがとっても苦手でした。私が国語とか社会、歴史、古典などが非常に苦手だった原因がここにあります。自分の考えている事を文章にしにくいんですね。その原因が何かというと作文とか感想文が苦手な原因を5つに分けて現した動画がありました。

 一つ目は「思考を言語化する作業が苦手」だそうです。感想文とか作文ばかりではなく、実は私は言葉にするのも苦手なんですね。討論になると必ず負けます。口げんかになると必ず負けていつも悔しい思いをしていました。これは頭で考えている事の抽象度が複雑、言葉で表現できる範囲を超えてしまっている為に、言葉に落とし込めない現象が現れるということです。さらに、完璧主義が加わると自分の書いた文章とか話した言葉に対して満足できない現象も現れます。私は自分が書いた手紙は読み返せません。読み返すと必ず修正するか、出すのが嫌になったりするからです。せっかく書いたのに読み返して嫌になる場合がほとんどなんです。だから書いた記事に置いても読み返さないようにしているのです。だから誤字脱字が多くなってしまいます。それから一度説教をしたことがありますが話している自分の話、聞いている人々の態度で自分が満足いかないと自分が何を話しているか分からなくなってしまってしまうんです。だから人生に一度だけの説教になりました。話していて客観的に自分の話を聞いていると嫌なんですね。満足しないんです。だから話せなくなってしまうのです。若い頃は手紙を何度も書き直したことがありました。嫌になって出すのをやめた時もあります。

 二つ目は書字が苦手というのがあります。思考が複雑でそれをアウトプットするのに時間がかかってしまうそうです。文字を書くのは苦手ではありませんでした。でも、漢字を覚えたり意味を覚えたりするのが難しい人間でしたね。最近はかなり改善されています。なかなか文字で表現することが大変でしたね。今はこのようにキーボードを使っての入力なので非常に楽です。大体会話の程度の速さより若干遅いですが、入力できるようになりました。

 三つ目は自分の感想を言いたくない。自分の考えに自信が持てなくて人に話せないのです。いろいろな会議とかミーティングでも私は自分の意見を言う事はありませんでした。いつも人の意見を聞く側に回っていたのです。そんな人いますね。聞くだけの人がいますね。私がまさにその人間でした。だから頭の中ではいい発現がしたい。こんな意見だったらどうだろう。皆が感動する意見を話したいなんて考えていると、そんな話をする機会がまったくないんです。そしてたまに放す機会があると緊張して、自分の意見が受け入れられるのだろうかとか考えてしまってうまく話せないケースが多かったですね。自分が書いている文章のレベルが低いという自己評価から来ます。これは自分が感覚を優先した人間だからです。自分の中には評価基準がないから分からないのです。それから過剰適応がその原因になっています。受け入れられなかったら困るでしょう。あるいは正解、正しいもの、優れたものを追い求めるあまりに機会を失うのです。これが苦痛になって現れています。

 四つ目は気持ちを感じるのが苦手。知識欲や論理的思考能力があっても自分の感情や気持ちの揺れ動きについてはどうしても後回しになるそうなんですね。ああなるほどと思いました。そこで本来の心身の状態が覆い隠されてしまうケースだそうです。色々とひとから感想とか聞かれてもうまく答えられないのです。自分が何が良かったかとか感動したとかということが分からないでいるのです。だから聞かれても困ってしまうのですね。感覚に置いては良いこととか感動したこと、一番良かったこととか比較してみて一番なんて分からないからなんです。質問を厳密に捉えすぎてしまっているそうです。

 最後に五つ目は書きたいことがユニークすぎるです。書いている文章がユニークすぎて人々の評価対象ではなくなってしまうということです。だから過剰適応をさせるものにとってはもう書かないほうが良くなりますね。それから会話においても話さないほうが良くなります。

 だから私は書くことが苦手で、話すことも苦手な人間になりました。聞く事はできますが、それだけで理解を受けられない苦痛の感じながら生きてます。過剰適応しようとしても受け入れてもらえない要素が多くて大変ですね。それを自然にしてきたのです。だから自分自身の過剰適応はさらに強くなるばかりでした。

 これらは実は感覚優先の人間の特徴なんです。

 

 

 

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