環境に支配されない信仰

 「義のある生活」とは、良い環境の中で受けた恵みを、悪い環境のもとでも保っていく生活のことをいいます。環境が恵まれている時だけ喜ぶのは、初期の段階の信仰です。次第に成長していくにつれて、難しい環境の中でも、いかに恵みを保っていくかが重要になってきます。良いことだけを喜ぶことはできないのです。

 ただで得ることの好きな人は、信仰者として正しい姿勢ではありません。子供は、ただでもらうことが好きです。正月に、お年玉をもらう習慣のある子供は、家を訪問するお客さんにあいさつしながら、お金を欲しがります。これはだれもが幼少のころ、一度は経験することではないかと思いますが、成長するにつれて他人から何かただでもらうと、心に負債を感じるようになってきます。私たちは、神様や真の御父母様にお世話になって恵みを求めてはいけません。良い環境だけを喜ぶのは無能な人であり、悪い環境の中でも喜ぶことのできる人が、成長できるのです。

 環境が悪いと不平を言う人がいますが、環境に支配される人は、自分はまだ未熟だと自覚しなければなりません。他人から無視されたとしても、気分を害する必要はありません。成熟した信仰者は、他人から無視されても、褒められても、影響を受けないものです。

 神様の事情をよく知っている人は、横的環境と相対しません。これが真なる信仰者の姿勢なのです。

 着実に自己の責任を果たし、それを通じて心情がさらに豊かにならなければなりません。責任を果たすことを通して、くたびれず、弱くならず、感情が豊かにならなければならないのです。これは、私たち信仰者が生活の中で実践すべき内容です。

 み言を探究しながら感動したことを吟味し、信仰に対する感情がより豊かになるように努力しましょう。環境が悪いと思うと、一生不幸になります。

 私たち信仰者は、天国の実を準備する者です。人生がどうなるかは、自分の信仰の基礎をどう整えるかに掛かっています。信仰の基礎が磐石のようにしっかりとしていれば、環境に支配されたり打撃を受けたりしません。

 私たちの行く人生の道は、順風満帆とはいかないので、心を痛めることが多くあります。心を痛めるとは、既に心霊的に損しているということです。しかし私たち信仰者は、どんな逆境にあっても進んでいかなければなりません。逆境にあっても、愛をたくさん蓄えなければならないのです。愛に対して損してはならないのです。これは私たち信仰者の生活鉄則です。

 聖書でも、「すべてのことに感謝しなさい」と言っていますが、これは愛を築き上げる者の姿勢です。すべてに感謝する人は、あらゆる逆境の中でも、自分の心霊の恵みを保っていけるのです。感謝して当然の環境の中でしか感謝できない人は、人の世話になる人であり、感謝できない環境の中でも感謝の気持ちを保っていける人は、真なる信仰者なのです。環境のせいで時を逃したというのは、言い訳にすぎず、自分の信仰姿勢が問題なのです。

 やろうという強い意欲をもてば、環境を克服できるのです。環境に不平を言えば、時を逃します。私たちの周りの環境は、常に私たちに協力的ではなく、逆らっていることが多いのです。私たちの行く道には、いつも逆境と挑戦が待っているということを忘れてはなりません。


    祈祷生活の重要性

 心の願いどおりに生きるためには、世間のことをたくさん知っていても得になりません。多く知っていると、かえって自分のことが分からなくなってしまいます。知らないほうが、自分をよく知ることができる場合があるのです。それは、自分の中に神秘的な自己があるからです。神秘的な自己、すなわち霊人体を知ることが本当の自分を正しく知ることなのです。環境に支配される人は、自分が分からなくなります。私たちは、自分の責任分担を果たすことを通して、情が豊かになっていくのです。

 神秘的な自分を正しく知るためには、祈祷生活が必要です。静かに座って、自分の心を聞くのです。静寂の中で心と対話するために、黙祷するのです。祈祷を通して、本心の声を聞くことがとても大切なのです。

 それでは、どのようにして黙想にふけることができるのでしょうか。読書しながら、「原理」を勉強しながら、聖書を読みながらなど、時間の流れを忘れた時に、黙想にふけることができます。み言と自分が相対関係を結んでこそ、本然の自分の位置を探していくことができるのです。無我の境地で、霊人体が喜ぶ時間をもたなければなりません。讃美歌を歌う時や、説教を聞く時の心を基準にして、自分のなすことすべてに、全力を尽くしていくのです。

 祈祷の姿勢は、まず心にろうそくをともすことです。心にろうそくをともして、観念的ではなく自発的に自己の責任を果たすならば、その人は発展するでしょう。心にろうそくをともす人は、能力のある人として成長していのです。自分の責任分担が果たされなければ、信仰者としての姿勢は変わりません。教会に通っていながら、どうして心霊が復活しないのでしょうか。それは縦的にみ言と相対関係を結んで心にろうそくをともした時の心情を、常に保つことができないからです。原因は、正にここにあります。

 ろうそくの火が風に吹き消されることはありますが、私たちはみ言によって感動を受けたのですから、全力を尽くして真剣に生きていかなければならないのです。人に付いていくのではなく、常に心にろうそくをともして、一生懸命に生きていかなければなりません。

 「ささいなことにも忠誠を尽くすように」という言葉があります。これは「心にろうそくをともして生きる」と同じ内容の言葉です。「心にろうそくをともしなさい」とは、何かを行う時に時間の流れすらも忘れた、そのような姿勢を自分の日常生活に適用していくことです。そのために祈祷生活がとても大切なのです。そして、これが自分の生活となっていかなければならないのです。

 

 

 

 

 

 

 

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