イエス様の話される裁きに付いて

 イエス様の言葉、マタイによる福音書 7:1-6 「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。 あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。 あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。 兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。自分の目に丸太があるではないか。 偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。 神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。」

 このイエス様の言葉は殆どの人はどのように捉えるかというと自分が裁いたその裁きで人から裁かれるというものでしょう。人の事をどうのこうのと言う人はその言葉に責任を持たないといけないのですが大体の人は話した言葉に責任を持ちません。だから裁きの言葉を沢山言ってもその事を自分が実践していない人が殆どですね。自分が実践している事を話す人は少ないでしょう。だから、大体の人は人を裁いても、その裁いた内容を裁いた本人が実践していないので他の人からその裁きで裁かれるというものです。

 これはどういうことかというと裁きの物差しが裁いたその人の内側にあるからです。評価基準が脳にあるからその見た環境を裁くんです。実はこれは簡単に抜け出られるものではないのです。簡単に逃れられるものではありません。同じ環境になる度に裁いている自分を感じるでしょう。いかがですか?裁いている自分を客観的に見つめて分析してみてください。大体同じ環境で同じ裁きをしていますね。

 どうしてこれが直らないかというと自分の意識を理解していないからなのです。何度も書いてきましたが人間の意識は後追い意識だからです。自分が人を裁いたときの裁きは自分が裁いていると感じた時から0.5秒前には脳がその初期電圧を作っています。意識で感じた瞬間に現れるものではありません。そのための脳の初期電圧があります。だからこれは自分の脳が作っている意識なんですね。自分で気付いて治したいと思っても無理なんです。遅すぎるんですね。だから意識を中心として内的な学習をしないといけないのにそれが出来ないのが現状なんです。どうして出来ないかというと自分のその意識を受け入れてないからです。被害者意識が良い例です。勝手に被害者になっている事を知らねばならないからなのです。これらは全て概念の世界で生きるので解決されません。だからイエス様の語られる裁きという意味を自分が裁いたその裁きで人から裁かれるという捉え方をせざるを得ないのです。

 私の場合は人を裁いたその裁きで自分が自分で裁くという意味なんです。裁いたその裁きの評価基準が自分の中にあるので、その評価基準が環境を通じて裁きという思いが表れるでしょう。私は言葉にして出力しないで止められることが出来ます。話してよいか黙っているほうが良いかという作業が出来るのです。そしてその原因が自分の中にあるので、裁いた思いをすぐに転換させるんです。自分がその様になっているか、言えるような立場になっているかと自問自答するんです。自分に問うことができるのですね。だから裁きの思いは自分自身にむけられるのです。これが感覚の人の感じ方なんです。

 

 

 

 

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