感覚が良心の根源 #3 どうして感覚なのか?
どうして感覚なのかと言いますと、感覚ならば本然的であり、本性が誰にもあるということなのです。本性が感覚から来ているということがいえると思いませんか?今までは良心、本性というものは何か特別な概念で日常の生活に繋がりませんね。私はそれがとっても嫌で、色々と学んできましたが概念で学んでもしっくり来ないのです。何処か物足りなさがありました。結局はそれが自分の生活と結びつかないことなんです。
皆さんはそんな事は考えなかったのですか?講師の言葉をそのまま聞いて感動しましたね。その感動は何かというと李ヨハネ先生はそこが出発点だと仰ってました。感動したり、悔い改めたりしたら成長したと思うのが普通ですね。何か今まで得られなかったこと、気が付かなかったことが得られたり、気が付いたりしたので成長したと勘違いするんです。それは知識で得られたものなのです。講義とか礼拝とかというものは言葉で説明されたものだからです。悔い改めは自分の位置と状態が一時的にハッキリしたから出発点なんです。
どうしても良心、本性、本心、邪心、あるいは善と悪とかというものはどうしても概念で理解しています。自分の生活と何の関わりがあると思いますか?自分の生活になるとまったく関係のない生活をしてきましたね。それはどうしてかというと学んだのは概念だからなのです。
自分の感覚とはまったく関係ないのです。これは仕方がない事ですね。社会自体が感覚を抑圧しているからです。頭の中で描かれた、人間の都合の良い、自分達で決めた幸せの世界を具体的に実現した脳化社会というものが私達の社会です。養老猛司氏の「こう考えると、うまくいく。~脳化社会の歩き方。」という本があります。「本書は、20年以上も前に行われた養老孟司氏の講演録をまとめたもの。「意識は、なぜあるのか?」「 人間は死んだら『モノ』なのか?『ヒト』なのか?」「人間は『人工身体』と『自然身体』の二つのからだを持っている」「 人工(脳)と自然(身体)との釣り合いこそ重要である」「 人間は、意識だけでできているわけではない」「『男』と『女』という言葉ができたとき、性の連続が断ち切られた」「人間は、自分ができることの説明ができない」「 子どもを育てるとは『手入れ』をすること」「『ああすれば、こうなる』だけになった現代社会」という9講演を収録している。」というように説明されています。
だから予定して生きるのです。予測して生きるのです。未来を信じて生きるのです。明確にすることで不安を感じない様にして生きるからなんですね。だから今という瞬間は将来の為に、過去の延長で、今のこの瞬間を私達は生きていて、私達は何時死ぬか分からないのに何時までも生きている事を信じてい、予定して生きてますね。信じて信仰で生きているのです。だから何が抑圧されるかというと今、この瞬間だけに生きる自分の感覚が抑圧されるという意味なのです。
私の人生はこの苦しみで生きていたように思います。回りは皆概念で生きているのですね。そして自分はどうも同じように生きれない自分がいて、どうしてなのか分からないまま苦痛と苦悩を感じながら、その原因が自分にあると言及しながら、そんな自分が間違っているんだと思いながら、誰にも相談できなくて、一人で悶々としながら教会生活を行ってきました。
まあ、今になっても自分が間違っているんだとみられても別に私は気にしません。自分の感覚だけを信じて生きればよいことなんです。別にかまわないですね。自分の感覚で感じた事は必ず実践しなければなりません。そうしないと自分が生きている意味がなくなってしまうからなのです。
一人一人の感覚というのは自分でも感じられるでしょう。努力すると感じられます。そして日常の生活の感覚を感じながら生きるでしょう。神様はいつも私と共にいてくださる。どんな時でも導いてくださる。私を見捨てる事はないというのは何処から来ているかというと自分の感覚からきているからでしょう。
人間の創造のなかでこの感覚と言うものを人間に持たせたかったのだと思います。私が考えるには人間のような感覚は動物にはないと考えています。動物は僕でしょう。機械なんです。アルゴ二ズムに誠実にしたがって生きる機械ですね。デカルトの動物機械論は意外と良いかもしれません。霊肉二元論も良いかもしれません。それは人間と動物の違いを示しているからなのです。
日常の生活で私は感覚の働きを感じます。具体的に身体の感覚は皆さんも感じることが出来ると思います。その感覚は意識に現れる感覚ですが、言葉では言い表せないものがあるのです。「今、この瞬間を生きる。」という事は一体どういうことでしょうね。感覚はこれを私達の生活で何らかの見えない形で表しているのです。日常の生活であらわれるのです。
私には現れています。それがしばしば苦痛と苦悩になります。概念で活動すると義務感使命感なんです。そして義務を行わないと評価されます。必ず結果の評価があるのです。人が集まってこれが可能でしょう。沢山の人の集まりの中で可能なのです。だから、沢山人が集まっていても私自身は一人の感覚があるので、前々から続けている過剰適応をせざるを得ないのですね。なぜかというと必ず人は評価するからです。私には良い評価も悪い評価も必要ありません。自分自身を自分がどのように評価できるかが重要なんです。それは感覚だけが可能なのです。