内的自己分析 言語を見つめてない。

 私は言語をもう見つめていないです。人間は言語の影響をかなり受けてますね。人間関係は全て言語でしょう。よほど物理的な接触がない限り全ては言語でお互いに交流しています。体でぶつかり合って喧嘩するとか、殴り合いするとか、色々と危害を与えるとかその様なものを除いて、ほぼ言語でお互いに影響しあっています。ボディーラングエッジというのもあります。そして表情もあります。それで大体はお互いに影響し合うのです。

 「AIの自動翻訳の最新の自動翻訳機には「学習機能」が搭載されています。全ての翻訳結果を専用のデータベースに蓄積し、そのデータから人工知能が学習することで、プロの翻訳者と同レベルの翻訳の正確さを実現することが可能となりました。」ということです。さらに人工知能の進歩は年に倍の速さで進歩しているそうなのです。だから二年で4倍、三年で8倍ですね。かなりの速さで進歩していくことでしょう。ですから言語の世界もかなり変わっていくことです。

 私は日本人ですが、世界では現在7,139種類の言語が使用されています。また、約40%の言語が絶滅の危機に瀕しており、その多くは話者数が1,000人以下となっています。これが現状なのですが、極端に言えば人工知能で自分が話した言葉が世界の現在7,139種類の言語で話せてしまいます。同時通訳してくれる時がきますね。そうすると何が起きますか?自分が話した話が相手にそのまま伝わる時期が来てもおかしくはありません。通訳が要らないのです。

 それで何が起きるかというと語学が必要なくなって自分の地域の言語だけを勉強すればよいわけです。それで世界で言語が通じてしまうのですね。それで言語の壁がなくなります。でも、言語の種類で人々の性格も習慣も作られていきますのでそれは残るでしょう。今はその様な現象は現れていませんが、私は言語はもう関心がありません。言語が多くの壁を今作っているからなのです。

 私が見つめているところは言語を形成する前の私達の感覚です。人間の感覚は今、この瞬間が全てですね。過去も未来もありません。過去の怨み、憎しみ、被害感情とかその様なものがありません。過ぎ去った事はもうないのです。忘れ去れ去られても良いことなのですが、それに引っかかっていて残しているのでしょう。記憶して忘れられないのです。それは怨み、憎しみ、被害感情を持っているその人の記憶にあるのです。忘れようとすれば忘れられます。もし、その記憶の部分の脳の一部が損傷したら消えてなくなります。あんなに殺したいと思っていたのに記憶がすっ飛んでしまってなくなることもあるのですね。記憶障害が起きればその可能性はあります。殺したいほど憎んでたのにさっぱり消える可能性があるということなのです。これは一体どういう意味なのでしょう。

 だから、私達は脳の記憶に自分が勝手に記憶しているのですね。憎しみを越えてそれを感謝にすることも可能なのです。それは誰がするかというと私がするのでしょう。それをしないで被害者になって加害者に戦いを挑んでます。

 私達が今、この瞬間、自分が投入できたら一切超えられますね。すなわちそれがとこにあるかというと自分自身の感覚なんですね。感覚にそれがあります。それが「私の世界」を形成するのです。しかし、これを見つめさせないで、人間を概念の世界に縛り付けているのが何かというと概念なのです。別に概念が問題だという意味ではないです。今の私達は概念が優先しているので、その概念が感覚を抑圧しているだけなのです。それによって私達は日常の生活で使っている概念の世界で生きているのです。

 子供達が大人にいろいろな質問します。いろいろな好奇心にあふれてます。しかし、小学校、中学校、そして高校に通うと殆どの生徒は好奇心を失ってますね。それはなぜかというと学校は答えがあると教えるからです。テストは答えを書かないと良い点数がもらえません。それはどういう意味かというと答えがあるという意味なのです。何でもかんでもそこには答えがあるという習慣を持つようになります。だから答えがあるんだから好奇心が消えていくでしょう。

 好奇心はわからないから好奇心を持つのでしょう。決め付けてしまったら好奇心は消えていきます。これはどの方向に進んでいるかというと概念の社会に生活できるように人間を概念化しているのです。私達の運動も実は同じなんです。心情と言いますが、わからないから頭で考えてます。これは仕方がありません。心情は感覚からくるものです。人間の体は天宙の総合実体相、創造主に似たもの、神的価値があるとか、小宇宙と呼ばれているにもかかわらず、どうして自分自身を見つめないのか私にはどうもこうも納得がいきません。自分自身を見つめずに神様は外にいるんだと探し回っていませんか。何か導かれたらそこに神様が働いているとか、良いことが起きれは神様が働いていて、何処かに神様がいらっしゃると思うでしょう。だから決して自分を見つめる事は永遠にないんです。好奇心はわからないから生まれるのです。

 言語がその原因を作っています。だから無口になって生活してみてください。誰も話さないで生活して見てください。どれ位耐えられますか?いろいろな苦しみも感じることもあります。嬉しくて人に話したいこともありますね。人に理解されたいこともあります。だから言葉で伝えようとします。しかし、何も話さないで生活できますか?絶対に無理でしょう。

 自分は無口なんで出来ます。昨晩は息子ともう一人の子を家に送りました。大体20分ぐらいかかりましたが、この子に何を話したらよいんだろうと考えながら運転していて最後まで言葉がありませんでした。そして嫌われるかななんておもったり、そんな事は思われないだろうとか、このまま何も話さないでその子を降ろしたら嫌われるかなとか、躓くかなとか色々かんがえてましね。でも最後に貴方17歳でしょう。と言いました。してはいと答えたので誕生日何時なのと聞きました。そしたら9月だと答えたんです。それで少し会話が出来ました。到着の寸前だったのでよかったですね。その子はそれだけで喜んでました。あのまま無口でいたらどうなったことか考えていました。考えなくても良い事をどうも考えてしまうようです。私にとっては無口のほうが楽ですね。

 

 

 

 

 

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