感覚と概念の違い 孤独を超えた人

 「洞窟オジさん」と呼ばれる加村一馬(かむらかずま)さんは昭和21年8月31日生まれ。群馬県大間々町(現:さくら市)出身。両親から逃れるため、13歳の時に家出を決意。足尾銅山の洞窟をはじめ、栃木や新潟など転々として、43年にわたり、サバイバル生活を送りました。現在は社会復帰し、障がい者支援施設に勤務していらっしゃるそうです。

 13歳までは終戦後はとっても貧しい生活をしていた家庭でした。そして父親は厳しい方でした。飯は茶碗一杯だけと決められていたのですが、空腹で色々つまみ食いをしていて、父親に酷く体罰をうけていました。そして父親の干しマムシを食べて、かなりの体罰を受けたそうです。そして学校ではいじめられて、喧嘩しても負けたそうです。そんな少年は家でも厳しい両親がいて、学校ではいじめにあって、どちらにも入れなくなり、色々山は野原に行って山菜とか食べて空腹を補っていたようです。その時に野宿のための知識を得たみたいですね。そしてある日、家を出る決意を13歳の時にして実家から離れた閉鎖された炭鉱に向かったそうです。それから43年間一人でくらしました。

 この方には孤独なんてないんです。分かりますか?家族、学校では受け入れる人はいません。何処にもいないでしょう。だから野原、山にいっては一人で行動するのです。私達が言う孤独なんてないでしょう。こんな人を見るとああ可愛そうな人だといいます。

 ここでよく見つめてみたいことがあるんです。私自身も一人は孤独だと思いません。むしろ一人のほうが良いです。心が自由なんですね。誰かがいると自分の心は過剰な適応を試みて不自由になります。人の願いの為に生きようとするのです。それがどんなことであっても人の願いの為に時間を割き、動力を割き、自分のしたい事を犠牲にして、その人の為に投入するのです。これどこかで聞いたことありませんか?み言葉の犠牲精神です。他の為に生きる精神です。自分を犠牲にして他の為に生きる、人の喜びを自分の喜びにして生きる、人の願いを自分の願いとして生きることなんです。でも、そんな事をしている自分はなぜか疲れました。皆自分を利用するからですね。

 実はこの孤独を越えた私の世界と言いましょうか、これは非常に重要だと私は最近感じてきました。み言葉で説明しますと、聖書のイエス様はまさにその様な方ではありませんか?一体誰が理解しましたか?誰も理解する人はいませんでしたね。一体誰がイエス様を受け入れましたか?自分の利益を理由に受け入れてませんでしたか?自分に都合が良いので受け入れていただけですね。だから皆その様な人は裏切りましたね。誰一人として裏切らないでイエス様を受け入れた人はいませんでした。マグダラのマリヤは例外でしょう。

 この孤独を越えた人でなければ理解できないのです。それが妾の子である庶子の立場なんです。父親に認められません。家庭と言っても母親に育てられなければならない家庭であり、父と呼べる存在がいません。洞窟オジさんは父親に体罰を受けてました。これは父との間に隔たりがありました。家族縁が非常に薄いんです。こんな子は孤独な立場に追いやられます。イエス様はそんな立場でしたね。しかし、このような立場というのは非常に優秀な人間を作り出すんです。妾の子が人々に影響を与える立場に多くの人がいるということです。

 「末の時期は、妾の子供が世界を指導して、こういうふうに切り返していくのです。(先生が黒板に図―4を書かれる)だから、なぜ離婚が末の時期に許されるようになったかというと、妾が離婚することによって、正妻の立場に立つようになるのです。分かりますか? これが離婚したとするならば、このヤコブとラケルが一つになるのです。また離婚することによって反対するようになれば、この離婚した本妻が元の旦那さんを探していくのに、何の差し支えもないのです。再臨のメシヤが来た場合には、正妻も離婚することによって、妾も離婚することによって、本当の再臨の主の所に行くことができるのです。それはサタンに、「行くな」とぶたれてもです。だから、末の時期において、離婚をなぜ神様が許したのかというと、神のほうに自由自在に、完成の旦那さんを訪ねて、神に帰る道を開いてやるために離婚という問題を、常識みたいな環境にしてきたということを知らなければなりません。分かりましたか? (はい)。君たちもそうでしょう。旦那さんをだましてここに来たのだけれど、すぐに帰れば離婚もできます。離婚は難しくないのです。それは誰が決めるかというと、男が決めるのではなく、女が決めなければなりません。優先権は女にあるのです。女はアダムの実体の女王様です。男は天使長です。金とか全権は、子供と共に女が持っています。」( 蕩減復帰の峠を越えましょう)

 この立場は何を生むかというと一人の人間として自分を見つめる人になります。そして何が主体になるかというと自分自身の感覚によるものなのです。関係は概念を生み出しますが、孤独の立場は感覚重視の生活になります。だから感覚が優先する生活になるのですね。恵まれた天使長圏の家庭環境では概念で育てられる様になります。だから人間関係が全てでしょう。個人の個性をないがしろにします。平均化し、平均よりも離れている人を特殊なカテゴリーに放り込むでしょう。天使長圏の家庭で育ったらその様になるのです。そこから離脱するには否定を受けることで優れた人が生まれ、より優れた人が育つのです。それがすなわち皇族であり皇族圏なんです。それは概念中心主義から感覚中心主義に移行することです。

 私は感覚と概念の違いを取りあえず概念で知ってもらうために記事にしています。この記事も概念なのでご自分で探さないといけないのを忘れてはいけません。これはとっても重要なことです。み言葉でも概念で知ったらそれでよいと思っているでしょう。それで感動するのは自分が概念で生きているからです。感覚はそれでも疑問を持ちます。自分の感覚になっていないので言葉では疑問を持たざるを得ないのですね。私がそうでした。いつも疑問を持っていて感覚ではどうなんだろう、生活ではどうなんだろうという疑問がいつもありましたが、それも否定されてしまうのです。概念の抑圧によって、み言葉は絶対に正しいので疑ってはいけないというでしょう。み言葉そのものを覚えろということですね。だから感覚が抑圧されて麻痺してしまいます。それで私は苦しみました。

 感覚の人は一人でいがちですが、可愛そうな人ではありません。そんな人を見ると可愛そうな人だと評価しますね。実は反対なんです。

 

 

 

 

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