内的自己分析 本質に飢えている私

 このような記事を書くと、「何を言ってんですか?真理があるのに、本質があるのにあなたは分かりませんか?多くのみ言葉、語られたもの沢山あるでしょう。あなたは本質に飢えるとかいてこれを否定するんですか?」といわれてしまいそうですね。私は概念の真理を追究していないのですね。実は言葉にすることですでに概念化しているということなのです。み言葉がいろいろな本になっています。キリスト教では聖書が真理であると、絶対的な言葉であるといわれてます。それが過去に書かれたものが現代に残っていて多くの人々が信仰しています。確かに素晴らしいのです。

 感覚の私にはそれを実は絶対的なものと受け止められないのですね。言葉になっている事自体がもう駄目なんです。言葉にしている事自体が人間の感覚を一つの意味に収束させてしまっているでしょう。そしてその言葉を絶対的なものであるとして使っていますね。間違って言葉を使っているなんて思ってもみないでしょう。自分の感覚を言語化するときに学んだ言語で表現するんです。表現した言語というのは自分の感覚の一部に過ぎないでしょう。全部を言語化できますか?感動した全てを言語化できるでしょうか?

 本質に飢えるとどうなるかを少し書いてみます。本質に飢えるという事は本質が分からないということです。分からないのでそれを追い求めることです。これは私が子供の頃、「あんたは目を離すと何処に行くか分からない。」というような事を豊岡弁でいってました。だから何かを求めて夢中になっているので周りが見えない状態なんです。そして気が付いたら自分が何処にいるか分からないということなんです。それくらい追い求めていたんでしょうね。これと同じように本質を追い求める自分は子供の頃と同じですね。

 実はこれは感覚なんですね。概念はなんでも知っている気分になります。子供の頃の好奇心が段々と亡くなっている事に気が付きますか?自分の小さい子が父親と一緒に夜空を見上げていて、「あの星とりたい!ねえ取って!」なんて言い出したりします。「あの星に行ってみたい。」なんていいますね!そしたら「そうね、お前が大きくなったらたぶんいけるかな。」なんて濁してしまいます。無理だと言えないのでね。親の大人はもう好奇心が亡くなっているのです。どうしてなんでしょうか。これは小学校で、中学校で、高校で、さらに大学で概念を教え込まれるからです。そのための何でも知っている気分になっているのです。そして概念はハッキリしているので分かったつもりになりきっているのですね。だから好奇心がありません。好奇心は分からないから生まれてくるのです。自分が知らないと自覚しているところで生まれてくるんですね。概念はそれを抑圧しています。

 感覚で生きると、何もかもわからない事ばかりです。そして決して決め付ける事はありません。自分が感じている外界なんだからそれが正しいとか間違っているとかの評価はないのですね。だからいつも何かを追い求めます。知らないので追い求め続けるのです。だから私は感覚主体の人間なのですね。本質を求めることに飢えているからです。

 さらに、この本質分からないでしょう。分からないという事はどういう意味かと言いますと、本質という最終駅が分からないのです。だからもし自分で決め付けて途中下車したらそこでお終いなんです。大変な事を発見した!この発見は正しい!世の中に発信しなければいけない!というと実はそこが自分が降りるべき駅なんです。そして降りるでしょう。本質に向かう列車には二度とのれません。

 だからそのために私は何をしているかというと決め付けないです。

 これは何で学んだかというと車の修理で学びました。メカニックの同僚がいるでしょう。私はアメリカでメカニックを学びました。そして私よりも良くしている人が沢山いました。私は必死で勉強していました。そして気が付いた事は度々、診断をミスるということです。間違いがあるのです。やはり間違ったら嫌ですね。直らないのですから。皆さん知ってますか?車の問題が直った時のその感動分かりますか?

 こんなことがありました。今から三年ぐらい前でしょうか?ある二世の女の子が突然夕方でしたが車がスタートしないなんて連絡を受けました。その時に私は少し遠いところにいたんですね。その仕事を終えてそして向かいました。そしてそれは大きな駐車場のビルだったんです。皆仕事を終えて車がほぼありません。彼女を見つけて車をみました。私は色々と考えました。直らなかったらどうしようと思っていました。直らない場合の対策も考えないといけないなと思っていたのです。もう時間が夕方の会社の帰宅の時間になっていたのです。でも、彼女は何とか治せないかという思いを感じたので、決断しました。一つの予測を立てたんです。これが駄目だったら考えないといけないのですが、それにかけました。駐車場ですから暗いですね。少しは明かりがありました。彼女の助けを借りて、点火の信号があるか確かめたたら、点火してないのです。高い電圧が作られていなかったのです。それで、私が一つの立てた予測が濃厚になりました。問題はその部品が手に入るかなのです。そして普通は点火の高い電圧を作るコイルとコントロールしているイグナイターが別々なんですね。だからコイルのほうが壊れやすいのでコイルという予測を立ててました。そして車のエンジンをみると一体になったものだったんです。だからどっちかに決める必要がありません。ところが部品が見つからなかったら修理できないですね。不安がよぎりました。急いで近くの部品屋に行きました。なんと!持っていました!私は買い、部品を持って帰って、それを30分ぐらいかけて取り替えましたね。そしていよいよ彼女に頼みました。エンジンをスタートしてって。そしたらかかりました。その時の気持ちが忘れられません。この瞬間の気持ちを言葉で表せって言っても無理です。

 この時は予測して一つのケースにかけましたが、普通はその様な事はしません。時間がなかったし、場所が場所でしたし、夕方だったので仕方がなかったのですが、普通は決め付けないで色々はケースを考えてて診断します。経験が豊富な人の落とし穴がここにあるのです。症状を見聞きして何が悪いか決め付けるケースです。そうするとミスすることがありますね。だから決めつけないで故障診断するというのが私のポリシーとなっています。決め付けるとその駅で降りなければなりません。本質がつかまりませんね。

 大体の人は概念で生きるので決め付けて生きています。だから多くの人々は本質に手が届かないで途中下車しているのです。私は本質に飢えるので絶対に決め付ける事はしません。そうしないと自分の願いが果たせないからです。

 

 

 

 

 

 

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