内的自己分析 イラつく自分は馬鹿だと感じる

 小さなことでも敏感に感じてイラつくとそんな自分をメタ認知して馬鹿だと思います。色々と先を読んだり、予定通りにと先を読んだり、人の行動の心理を読んだり、いろいろなものの動きを繊細に読むので、現実との違いでイラつくんです。そしてそんなことでイライラするのかと即座に修正します。だからそんなことでイラつくのかと馬鹿な自分をいつも見ています。時には悲しくなる場合もありますね。どうしようもないです。

 あるところで待っていて、普通は何時終わるのか関心があるでしょう。沢山の人がプレーしていてどの人が早く終わるか分析しないといけないわけです。早く終わる人を探すのです。そしてそこで自分は待つんです。すると、人によって速さが違って、自分が待ったところは遅いのですね。するといろいろな気分になっているんです。「なんであんなにもたもたしているんだろう。もっと早くすればよいのに。」とか、昨日は自分が待っていたところでその人は追加をしたんです。「え!追加するの!待っていたのに。」と思うのですね。ところがそんな自分は馬鹿だとおもうのです。

 現象でしょう。現象として受け止めてそれを受け入れないといけないというのです。私が言いません。私の中の誰かが私に言います。「どうしてそんな事を思うの?そんなに時間が大切なの?その様にして人を批判するの?人の事をどうのこうの言える立場なの?そんなの普通に待てばよいでしょう。」なんていうのですよ。その言葉に対して自分はそうだと思うので、待ちます。何とか言い聞かせてていくのですが、心の中では少しゆれているのですね。

 私はそんな戦いをしながら学習しています。

 知ってますか?私達は自覚しない学習をしているのを。人に対して自分が被害者になって人を加害者にするでしょう。それが実は学習になってます。その学習で被害者の鎖で雁字搦めになっているんですね。動けなくなって不自由になります。しかし、その鎖誰も解いてくれません。自分自身が後に解かなければならないのです。そんな、自分でも気が付かない学習をしているのです。

 私はそれを知っているので、反対の学習をするんです。それは初めに書きましたが、内から聞こえる声に従うと、反対の学習が出来るのです。この学習が出来たらどうなるかご存知ですか?同じ状況になってもイライラしなくなります。同じ状況でも被害者意識にならなくなるんです。被害者意識という鎖なんてありません。

 だから私は毎日、瞬間、日常の意識の学習しています。この二年半の間かなり変わりました。特に通勤のフリーウエイのほかの車の運転の荒さが非常に目立ってましたが、気にならなくなりました。かなり変わりましたね。そうして二年半たちましたが、自分の中ではかなり解放されて自由になったと実感します。

 こうして日常の生活の中で感じる自分の意識を中心にして学習するのです。それは自分自身の意識の原因が私にあると認めるところから始まるのです。だから私は認めるのでなんて馬鹿な自分だなと思っています。この馬鹿は仕方がないほど馬鹿ですね。茂木健一郎氏も自分はポンコツだと仰ってます。この姿勢が実は感覚で生きる人のいき方のように思います。

 人を責めません、人を誰でも一対一で受け入れようとします。人と喧嘩すること、人に対してイライラする事はどう言う意味かというと自分自身を受け入れられなくしている結果なんですね。それをよく自覚しています。皆さんはこんな事を感じる事はありますか?

 

 

 

 

 

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